会津藩主就任
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嘉永5年(1852年)2月10日、藩主容敬が亡くなり、2月15日、封を継ぎ会津藩主・肥後守となる。 嘉永6年(1853年)4月、安房、上総の警備地を巡視し、士卒の操練や船の運用を見る。10月、会津藩、品川第二砲台管守を命じられる。 安政元年(1854年)10月3日、台命(将軍の命)により、駒場野にて老中・若年寄に藩士1000人余りを率いた教練を見せる。 安政2年(1855年)10月2日、大地震により和田倉邸・芝邸が焼失。死者165名。救済にあたる。 安政6年(1859年)9月、品川の守備を解かれ、蝦夷地の守備を命じられる。 松平容保には会津坂下の肝煎「唐司」が仕えていた。
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