会津藩公用方に登用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 08:22 UTC 版)
藩主・松平容保は、各藩で行なわれている藩政改革に遅れまいと会津藩内においても人材登用と軍制改革を断行。とくに長輝と佐川官兵衛の将来を嘱望していたとされ、藩の重役に登用する。ほどなく容保が京都守護職を拝命してのちは側近くにあって容保に随行し国事に奔走した。同じ頃、長輝の才覚にいち早く目をつけていた藩内の実力者・野村直臣の仲介で、軍学者である会津藩700石・井上丘隅の次女・雪子と婚礼を結んだ。ちなみに、井上の長女・ちか子は野村に嫁いでいるため、縁戚関係となった。 慶応2年(1866年)、容保は長輝の優れた国際感覚を買い長崎に派遣。藩兵組織と教練方法を西洋化すべく、長輝に視察を命じている。その改革によって教練を受けて生まれたのが、白虎隊である。
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