調所の死後とは? わかりやすく解説

調所の死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)

薩摩藩の天保改革」の記事における「調所の死後」の解説

調所の死の翌日である嘉永元年12月20日藩主斉興は大目付二階堂行健を後任改革主任任命し改革続行命じた。しかし二階堂はすぐに国許への帰国命じられ側用人吉利仲が業務引き継ぐことになった。しかし引継ぎに際して3000両の使途不明金が明らかとなり、二階堂の妾が自殺する騒ぎ重なり嘉永2年2月二階堂免職隠居慎を命じられ家格引き下げ処分受けた。また調所側近であった海老原清熙依願免職となり、隠居命じられた。このように調所の死後、調所派は藩政から後退していく。調所嗣子である左門は、幕府忌避受けたことを憚って免職の上家屋敷取り上げられたが。稲富改姓した上で家督相続認められた。 藩主後継問題お由羅騒動起きるなど泥沼化するが、嘉永4年1851年2月、斉興は引退して斉彬が新藩主となった。斉彬は改革により備蓄された金を、ヨーロッパから技術導入行った上で工場建設軍艦兵器製造用いていく。斉彬の執政でも調所改革時と同様の農業生産収奪政策続けられ砂糖専売制については更に強化された面もあった。 一方斉彬は執政中、調所派に対す追罰は行わなかった。斉彬は安政5年1858年)に亡くなり後継藩主久光の子である島津忠義となった万延元年1860年)には斉興が亡くなる。斉興の死後調所派を擁護する人物がいなくなった薩摩藩政は大久保利通中心とした若手藩士誠忠組握っていく。誠忠組は前藩主斉彬の遺志を継ぐことを標榜しており、お由羅騒動の中で若手藩士たちが激し弾圧受けたことを忘れていなかった。藩政掌握した大久保調所一派への追罰決め文久3年1863年2月調所遺族海老原清熙らかつての調所派に厳し追罰下された。これはかつて斉彬と対立した藩主の父、久光との関係を保ちながら藩政進めていくに当たり、藩内に大久保主導する藩政は斉彬の遺志を継くものであることを表明するとともに評判が悪い調所一派一種スケープゴートにして支持集めようしたもの考えられている。調所は「奸曲私欲もっぱらとし、国体損じ風俗乱し邦家覆し危うきに至らしめた」とまで非難された。

※この「調所の死後」の解説は、「薩摩藩の天保改革」の解説の一部です。
「調所の死後」を含む「薩摩藩の天保改革」の記事については、「薩摩藩の天保改革」の概要を参照ください。

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