調所の死後
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調所の死の翌日である嘉永元年12月20日、藩主斉興は大目付二階堂行健を後任の改革主任に任命し、改革の続行を命じた。しかし二階堂はすぐに国許への帰国を命じられ、側用人の吉利仲が業務を引き継ぐことになった。しかし引継ぎに際して3000両の使途不明金が明らかとなり、二階堂の妾が自殺する騒ぎが重なり、嘉永2年2月に二階堂は免職隠居慎を命じられ、家格も引き下げ処分を受けた。また調所の側近であった海老原清熙も依願免職となり、隠居を命じられた。このように調所の死後、調所派は藩政から後退していく。調所の嗣子である左門は、幕府の忌避を受けたことを憚って免職の上、家屋敷も取り上げられたが。稲富と改姓した上で家督相続は認められた。 藩主後継問題はお由羅騒動が起きるなど泥沼化するが、嘉永4年(1851年)2月、斉興は引退して斉彬が新藩主となった。斉彬は改革により備蓄された金を、ヨーロッパから技術導入を行った上での工場建設、軍艦や兵器の製造に用いていく。斉彬の執政でも調所の改革時と同様の農業生産の収奪政策が続けられ、砂糖の専売制については更に強化された面もあった。 一方斉彬は執政中、調所派に対する追罰は行わなかった。斉彬は安政5年(1858年)に亡くなり、後継藩主は久光の子である島津忠義となった。万延元年(1860年)には斉興が亡くなる。斉興の死後、調所派を擁護する人物がいなくなった。薩摩藩政は大久保利通を中心とした若手藩士の誠忠組が握っていく。誠忠組は前藩主斉彬の遺志を継ぐことを標榜しており、お由羅騒動の中で若手藩士たちが激しい弾圧を受けたことを忘れていなかった。藩政を掌握した大久保は調所一派への追罰を決め、文久3年(1863年)2月、調所の遺族や海老原清熙らかつての調所派に厳しい追罰が下された。これはかつて斉彬と対立した藩主の父、久光との関係を保ちながら藩政を進めていくに当たり、藩内に大久保が主導する藩政は斉彬の遺志を継くものであることを表明するとともに、評判が悪い調所一派を一種のスケープゴートにして支持を集めようとしたものと考えられている。調所は「奸曲私欲をもっぱらとし、国体を損じ風俗を乱し、邦家を覆し危うきに至らしめた」とまで非難された。
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