調所の失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:49 UTC 版)
久光は文化14年(1817年)生まれで、文政元年(1818年)に父・斉興のごり押しで種子島家の養子となった。文政8年(1825年)に斉興の心変わりにより種子島家との養子縁組を解消し、島津一門家筆頭の重富島津家へ養子に入ることとなった。名族ではあるが家老どまりの種子島家に対し、重富家の養子ともなれば次期藩主の地位を狙える立場となる。一方で斉興は嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。これは斉彬がすでに将軍家へのお目見えも終了し、将軍・徳川家斉の弟で御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていたこともあり廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくないため、藩主に居続けたものと思われる。 その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となったが、このころには嫡子が元服すれば早々に藩主位を譲って隠居するのが慣習であり、この事態は異常であった。当時、藩政は下級藩士出身でありながら斉興に重用され、家老にまで上り詰めた調所が強引な改革を進め破滅的だった財政を改善していたが、調所は久光を支持していた。これに対し、国元の若手藩士を中心として斉興と調所に対する不満が高まっていた。 斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば藩改易に成りかねない紙一重の手段に打って出た。琉球での密貿易は慶長14年(1609年)に藩祖・島津忠恒(家久)の琉球出兵で琉球が薩摩の勢力圏に入って以来、行われてきた公然の秘密で、薩摩藩の主要な収入源の一つであった。調所は密貿易に商人を関わらせ、利益を上げさせることで藩の借金を棒引きにさせていた。調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849年1月13日)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう一人で罪をかぶり服毒自殺したものとされる。 これにより調所の排斥には成功したものの、肝心の斉興は隠居しなかったため「斉彬襲封」の実現には失敗した。一方、補佐役を失った斉興はさらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になった。
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