対外問題と調所の自殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
「薩摩藩の天保改革」の記事における「対外問題と調所の自殺」の解説
斉彬と久光との藩の後継者争いと、調所の改革政治と調所本人に対する鬱積した不満はリンクして、斉彬は調所の反対勢力を主導していくようになった。斉彬は調所の改革全体を批判していたわけでない。例えば給地高改正や軍制改革についてはその必要性を認めていた。しかし調所による改革は下士たちへの配慮が足りない、不徹底な改革であると強く批判していた。 薩摩藩政を専断している調所の打倒を決断した斉彬は、部下に調所の政策、そして調所本人について徹底的な調査を命じた。調所に対する調査は所有財産、自宅の様子、身辺調査、更には藩士、農民、町人たちの人気、調所とそのブレーンたちとの人間関係に至るまで、詳細に行われた。しかし調所本人に関しては目だった汚職、疑獄の類は見い出せなかった。調所の生活は質素であり、改革に携わる中で私財も惜しみなく投じていたため蓄財も見られなかった。また商人たちとの交際も当時の社会通念上問題とはされない内容であった。 斉彬は調所打倒のための手段を選ばなかった。前述のように藩外にも黒田長溥ら斉彬の登場を期待する勢力があり、老中阿部正弘ら幕閣の中にも斉彬待望論があった。斉彬は調所の打倒について黒田長溥、阿部正弘と相談した。彼らは斉彬を藩主とするために、まず藩主斉興の股肱の臣である調所の失脚を目指し、斉興の権力を弱体化させた上で引退に追い込むことにした。斉彬らが取った手段は薩摩藩の密貿易の暴露であった。斉彬は阿部正弘に密貿易に関する情報を漏らした。嘉永元年(1848年)8月、藩士の軍役賦課、編成の取り決めの更新を行った直後、調所は藩主斉興の参勤交代に従って江戸に向かった。いつも通り大坂、京都に立ち寄った後、12月に江戸に到着したと推定されている。江戸に到着した調所を待っていたのは幕府からの密貿易問題の追及であった。 嘉永元年12月19日(1849年1月13日)、江戸の芝薩摩藩邸内の宿舎で調所は亡くなった。死に際して調所は吐血しており、服毒自殺であったと見られている。自殺の理由は密貿易問題で責任を一手に被り、藩主斉興に累が及ぶことを防ごうとしたとされる。
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