対外交易の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 17:07 UTC 版)
貝塚時代後期からは、九州と奄美・沖縄諸島の間で、「貝の道」といわれる交易活動が行われていた。奄美・沖縄諸島で産出されたゴホウラやイモガイの貝殻を、それらを装身具として使用する九州へ運搬、そして見返りとして、主に土器と交換された。その後の貝塚時代末期からは、螺鈿の材料に必要なヤコウガイ貝殻に需要が移り、当期における奄美群島北部の遺跡を中心にヤコウガイ貝殻が大量に出土している。ヤコウガイとの交換品として、土器の他に鋳造された開元通宝、鉄器が挙げられる。貝塚時代終末期(グスク時代開始期)になると、長崎県の西彼杵半島から製造された滑石製石鍋、徳之島のカムィヤキ古窯跡群で生産されたカムィヤキ、また中国産の陶磁器も琉球列島全域に流通した。 979年に宋が中国を統一すると、宋を中心にアジア各国と貿易が開始された。北部九州で11世紀中葉の白磁が大量出土し、この頃から日本は海外と交易し始めたとされる。そして琉球では12世紀頃の中国製の陶磁器が発見され、琉球と明が初めて交易したとされる1372年以前から貿易は開始したと考えられる。宋・元の商船が琉球に赴き、按司と交易し、また按司も宋・元に交易船を差し遣わしたのではないかと思われる。 土肥直美は、沖縄県那覇市で発掘されたグスク時代の人骨から、沖縄の先史時代と比較して、グスク時代における人々の骨格は、日本本土の中・近世人と大きな差異は見受けられないと述べている。そして土肥は、沖縄の現代人の特徴はグスク時代まで連続的に変化しているが、先史時代とグスク時代の人々の形質に明らかな差があると指摘している。この土肥の研究結果を受けて福寛美は、グスク時代に発生した文化的変容は、日本や中国などから広範囲にわたって南下した人々によって引き起こされたと述べている。また吉成直樹は、北からの人々が南下し、グスク時代開始期に沖縄諸島に日本語と同系の言語が広まり、その後先島諸島にも拡大したと述べている。 先島諸島の先史時代は、奄美・沖縄諸島とは異なり、台湾・フィリピンなどの南方文化の影響を受けたと考えられる。1950年代に調査した波照間島の下田原貝塚では、シャコガイ製の貝斧が出土し、先島諸島に南方系の石器文化を有していたことが報告された。グスク時代以前の先島諸島の人々は、南方系の言語を使用した可能性が高く、現在でもそれを由来とする言葉が残されている。しかし高梨修は、琉球より南から伝播した文化が存在したという考古学的証拠は無く、少なくとも約6,000年前でも沖縄諸島は九州の縄文文化の影響を受けていると考えている。グスク時代初期において、沖縄諸島に広まったグスク時代文化は、徐々に先島諸島にも伝わった。そして先島諸島最南端の波照間島に位置する大泊浜貝塚には、沖縄諸島にグスク文化が波及してから約1世紀後まで、先史時代の伝統生活が営まれたと考えられ、その後先島先史時代の文化は消滅したとされる。こうして、奄美から先島までは琉球文化圏として統一され、その後の琉球王国を形成する基礎を作り上げた。
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