トルキスタンとブハラの征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 14:19 UTC 版)
「クタイバ・イブン・ムスリム」の記事における「トルキスタンとブハラの征服」の解説
最初にクタイバが自らに課した任務は、下トハーリスターンの反乱の鎮圧であり、これはバルフの再征服で速やかに成し遂げられた。こうしてクタイバは、 al-Saghaniyan王Tishを始めとする、上アムダリア川渓谷の在地諸侯の服従を確実にした。ペルシャ人スsulaymによる長い交渉のあと、エフタルの支配者でバードギースの王であるタルカン Nizakはクタイバに降伏し、遠征に同行することを誓った。 706–709年、クタイバは長く血なまぐさいソグディアナ征服に専念した。当時のソグド人は内戦で分裂しており、2ヶ月の包囲の後、クタイバはやすやすとソグディアナの首都ブハラにほど近いパイカンド(畢国)en:Poykentの都市を獲得することができた。少数の守備兵を残して彼は出発したが、すぐに住民による反乱が起こった。アラブ軍は帰還して都市を略奪した。戦闘年齢の男子は処刑され、女子供は奴隷として売り払われ、鎧や武器といった膨大な戦利品が積み上げられ、支給された。 残虐な罰が略奪された国であるバイカンドに課せられた。ソグド人は内紛を中断し、マー・ワラー・アンナフルの諸侯はWardan Khudahのもと団結した。707年の遠征で、クタイバは中心から離れたTumuskathとRamithanaの2つの町を獲得したが、その後マー・ワラー・アンナフル同盟軍に背後を脅かされた。クタイバは戦いをやめ、時間稼ぎの交渉をして、鉄門を通ってアムダリア川をテルメズで渡り川の向こう側へ素早く退却した 708年の遠征もまた失敗に終わり、アル=ハッジャージュを激怒させた。 709年に、アル=ハッジャージュは新たな計画を建てた。アラブ軍はブハラに直接攻撃を仕掛け、同盟の指導者のWardan Khudahが突如死亡したことにより弱まっていた同盟に襲いかかった。都市は強襲され、20万ディルハムの貢納が賦課され、アラブ守備兵が置かれた。直接の余波として、サマルカンドの支配者がクタイバヘ外交使節を送り、カリフ国に進貢従属国となった。 しかしこの成功の後、709年の秋にバードギース王Nizak率いる下トハーリスターン各地で反乱が起こり、バルフ市と諸侯のYalqaとFaryabが支援した。全土を反乱に立ち上がらせるため、Nizakは通常のトハーリスターン領主つまりヤブグにも反乱に加わるよう強制した。この年は直接対決するには前進しすぎていたため貢納を基礎としたムスリム軍はほとんど解散しかけていたが、しかしクタイバは兄弟のアブドゥッラフマーンにメルヴの約12,000人の守備兵を率いてバルフに向かいムスリムの地位を守るよう命じた。この動きによりさらなる諸侯が反乱に加わるのを押しとどめ、春にアブドゥッラフマーンはトハーリスターン全土に流血をともなうことなくムスリム支配を再建立することに成功した。反乱した支配者のほとんどは逃亡するか降伏し、最終的にNizakも捕らえられ助命の約束にもかかわらずアル=ハッジャージュの命により処刑された。また「ヤブグ」はダマスカスへ追放され人質として留められた。トハーリスターンはより強固にカリフ国へ組み込まれ、アラブ地区の代表者が在地諸侯と並んで指名され、在地諸侯はだんだんと2次的立場へ追いやられていった。アブドゥッラフマーン・イブン・ムスリムは県の出来事を監視させるためバルフ近郊に守備兵を駐屯させた。Nizakの反乱はつかの間のものだったにも関わらず、トハーリスターン北部山岳地帯のシュマン(Shuman)王とアフルン(AkharunまたはAkhrun)王は同様に反乱を決心した。クタイバは軍勢を率いて要塞を包囲して獲得した。王は戦いに敗れ、その支持者は処刑された。クタイバは鉄門を越え西へ行軍し、キシュとナサフを取りブハラを訪れ、アラブと現地人の間に関係を置き、そこで若いソグド人諸侯Tughshadaを「ブハル・フダー(Bukhar-Khudah)」(ブハラ王)の座に据えアラブ軍事植民地を建立した。そして712/713年に、クタイバは都市の城塞にモスクを建てた。しかしながらアラブの権力者は現地人の改宗を礼拝に出席したら報酬を払うことにより奨励したため、イスラーム化はゆっくりと進んだ。 同時に、クタイバは東方の以前の習慣からの決定的な離反となった処置を始めた。彼は、通常1万から2万の兵員からなりほとんどが非改宗者からなる現地ホラサーン人部隊の徴収の引き上げを命じ、アラブ部族軍「ムカーティラ(muqatila)」の補助とした。a[›]この処置は、後にソグディアナとホラズムの新征服地に拡大された。 Gibbの示唆によれば、この動きは征服地の支配とムスリム遠征の継続のためのより多くの部隊の必要性に応えたものかも知れないという。これは現地の労働力をアラブのために役だてて消耗される手段であるのと同時に、反アラブ反乱のリスクを軽減させるためであった。Gibbはまた現地勢力をつくることはクタイバの自身の権力基盤を建立しようとした試みであったことを示唆する。 712年から、クタイバは「弓兵(Archers)」として知られた、特殊な軍団を作り始め、その中にはホラサーン人とトハラ人とソグド人の貴族がいた。彼らの技能は「rumāt al-buduq」(瞳を射抜く射手)と呼ばれ、おそらく護衛として仕えた。 ホラサーン人改宗者出身のハイヤーン・アン=ナブティー(Hayyan an-Nabati)は主要な指導者として頭角を現し、ホラサーン人の徴集兵の指導者とソグド人の主要な交渉者として頻繁にタバリー(Tabari)の報告書に登場する。 711年後半、アル=ハッジャージュはクタイバにザブリスタンen:Zabulistanのエフタル人王国に向かって行軍するよう命じた。ここの支配者はen:Zunbilの称号を持ち、長い間アラブ側の不屈の棘でありつづけ、シースターン州en:Sistanを脅かしていた。また彼に対する幾度もの遠征は失敗しており、休戦協定で貢納の交換を合意していた。加えて、自由なザブリスタン王国の存在は、トハーリスターンのエフタル人小国に対するムスリム支配の安定に脅威であった。なぜなら小国がこれから救援を求めるかもしれないからだった。こうしてクタイバは大軍を率いて南に向かったが、'Zunbilはすぐに降伏と貢納の支払いを申し出た。簡単な成功に満足したクタイバは、ザブリスタンの山での遠征の危険を冒したくなかったので、離れた。守備兵が置かれなかったので、アラブ軍が離れるとすぐ、Zunbilは貢納の支払いを止めてしまった。
※この「トルキスタンとブハラの征服」の解説は、「クタイバ・イブン・ムスリム」の解説の一部です。
「トルキスタンとブハラの征服」を含む「クタイバ・イブン・ムスリム」の記事については、「クタイバ・イブン・ムスリム」の概要を参照ください。
- トルキスタンとブハラの征服のページへのリンク