トルキスタン総督府の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 22:30 UTC 版)
「別失八里等処行尚書省」の記事における「トルキスタン総督府の設置」の解説
「別失八里等処行尚書省」の前身となる組織が設置されたのは第2代皇帝オゴデイの時期のことで、『集史』「オゴデイ・カアン紀」には以下のように記されている。 [オゴデイ・]カアンは漢地の全州を宰相マフムード・ヤラワチに委任した。そしてウイグリスタン地域であるビシュバリクと高昌、コータン、カシュガル、アルマリク、カヤリク、サマルカンド、プハラから、ジャイフーン[河]の岸まで[の地域]を、ヤラワチの子のマスウード・ベクに[委任した]。またホラーサーンからルームとディヤルバクルの境まで[の地域]をアミール・クルクズに[委任した]。そしてこの全地域の徴収された税の全ては国庫に送られていた。 — 『集史』「オゴデイ・カアン紀」 上記のように、オゴデイ時期のモンゴル帝国では「ウイグリスタンからジャイフーン河(=アム川)に至る」地域がひとまとまりの地域として認識され、マスウード・ベクに監督が委ねられていた。マスウード・ベクを長とする中央アジア統治機関は諸王が税収の確保のために送り込んだ文官(ダルガ・ビチクチ)を取りまとめる存在であり、税収の確保と諸王・皇帝の権益折衝が主な任務であった。また、オゴデイ時期には征服地における再度の人口調査が行われたが、その過程で「戸(家族世帯)」で数えるか「丁(成人男性)」で数えるかという議論があり、結果としてヒタイ(漢地)では「戸」を基準として、中央アジア(西域)では「丁」を基準として数えるよう定めたと記録されている。
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