クチュの南征とは? わかりやすく解説

クチュの南征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 15:22 UTC 版)

モンゴル・南宋戦争」の記事における「クチュの南征」の解説

1227年モンゴル帝国創始者チンギス・カン死去すると、1229年行われたクリルタイ結果オゴデイ第2代皇帝カアンとなったオゴデイはまずその政権盤石さを示すため、南宋同盟を結び第二次対金戦争起こした戦闘大部分モンゴル軍担ったが、南宋側でも孟珙派遣するなど勝利貢献し1234年、金をついに滅ぼした。 そこでモンゴル帝国南宋協定を結び、モンゴル軍は北還を開始したが、南宋政府は遼滅亡時と同じよう中原回復という非現実的な目標掲げ協定破って北宋旧都開封洛陽南京などの都市奪回した。この行為は当然モンゴル帝国軍の激し怒り呼び南下開始された。 一方オゴデイ政権では東西への大遠征企画されつつあり、バトゥの西征対になる形でオゴデイ第3クチュ総大将とする南宋侵攻作戦決定された。クチュモンゴル軍伝統三軍方式をとり、西路軍はコデン率いて甘粛方面から、東路軍カチウン家のアルダイチなどが山東方面から、そして中央軍漢水流域南下して大軍南宋攻め込んだ。 しかし、総大将であるクチュ開戦早々に不可解な急死遂げ中央軍後退してしまうと、モンゴル軍指揮系統混乱してしまい、諸軍がばらばらに南宋側の諸都市攻撃することとなったここにおいて指揮系統混乱したモンゴル軍はしばし攻城戦失敗し前回モンゴル南宋との衝突でも活躍した孟珙が再び起用されると逆に南宋軍に押し込まれ襄陽までをも失ってしまう。

※この「クチュの南征」の解説は、「モンゴル・南宋戦争」の解説の一部です。
「クチュの南征」を含む「モンゴル・南宋戦争」の記事については、「モンゴル・南宋戦争」の概要を参照ください。

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