クチュリエールとして
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「ココ・シャネル」の記事における「クチュリエールとして」の解説
1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業し、レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出した。シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていたジャージー(英語版)やトリコットのような安手の生地で作られていた。ブティックの立地は最高であり、ドーヴィルの中心にあるファッショナブルな通りにあった。ここでシャネルは帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスのマリニエール(marinière)を販売した。シャネルは妹のアントアネット(Antoinette)と同い年の父方の叔母アドリエンヌ(Adrienne)という2人の家族から献身的な支援を受けた:42。アドリエンヌとアントアネットはシャネルの作品のモデルを務め、毎日のように街と遊歩道を練り歩きシャネル製品を宣伝した:107–08。 シャネルはドーヴィルでの成功を再現することを決意し、1915年にビアリッツに本格的な店舗を出した。スペインの富裕層の顧客に近いコスタ・バスカのビアリッツは金持ちグループや第一次世界大戦で自国から亡命してきた人々の遊び場であった。ビアリッツの店舗はフロントがなくカジノの正面の別荘内にあった。1年間の営業で、この地でのビジネスが極めて有利なものであることが証明され、1916年にはシャネルはカペルが提供した原資を返済することができるようになった:124–25。ビアリッツでシャネルは追放されたロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公と出会った。シャネルと大公はロマンティックなひと時を過ごし、その後何年もの間密接な関係を維持した:166。 1918年、シャネルは事業を拡大し、同じカンボン通りの31番地に新店舗を開店した。1919年までに職業を「クチュリエール」として、この店舗をメゾン・ド・クチュール(maison de couture)として登記。現代的なブティックを目指す彼女は、1921年から、香水のほか、衣服や帽子に合ったアクセサリーを、次いでジュエリーや化粧品なども販売するようになった。敷地もさらに拡大し、1927年までに、カンボン通り23番地から31番地までの一画に相当する5件の不動産を保有した。 1920年の春(恐らくは5月)、シャネルはバレエ・リュスの団長セルゲイ・ディアギレフによってロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーに引き合わされた。夏の間に、シャネルは戦後、ストラヴィンスキーの一家がソヴィエト連邦から逃れ住処を探していることを知った。彼女はストラヴィンスキー一家をパリの郊外のギャルシュにある自分の新居ベルレスピロ(Bel Respiro)に招待し、彼らが適当な住居を見つけることができるまでの間住まわせた:318。彼らは1920年9月の第2週にベルレスピロに到着し:318、1921年の5月まで滞在した:329。シャネルはまた、バレエ・リュスの新たなストラヴィンスキーの新作(1920年)、『春の祭典(Le Sacre du Printemps)』の金銭的損失をディアギレフへの匿名の贈与で補填した。その金額は300,000フランと言われている:319。クチュール・コレクションの発表に加えて、シャネルはバレエ・リュスのためのダンス衣装のデザインに没頭した。1923年から1937年にかけて、彼女はディアギレフとダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーが振付た作品群、特に『青列車(Le Train bleu)』、ダンス・オペラの『オルフェ(Orphée)』と『オイディプス王(Œdipe roi)』に協力した:62:69-70。 1922年、テオフィル・バデール(英語版)は彼が創設したギャラリー・ラファイエットでシャネルNo.5を販売したいと思い、パリロンシャン競馬場で、シャネルを実業家のピエール・ヴェルテメール(英語版)に紹介した。1924年、シャネルはピエール・ヴェルテメールとポール・ヴェルテメールの兄弟と契約を結んだ。この兄弟は1917年以来、高名な香水・化粧品ブランドのブルジョワ(英語版)の経営陣であった。彼らは企業法人パルファム・シャネル(Parfums Chanel)を創設し、ヴェルテメール兄弟がシャネルNo.5の生産、マーケティング、流通の費用全額を出資することに合意した。利益の70パーセントをヴェルテメール兄弟が受け取り、20パーセントがバデールの取り分であった。株式の10パーセントを保有するシャネルは名前を「パルファム・シャネル」にライセンス供与し、事業経営からは退いた:95。シャネルNo.5が爆発的なヒット製品となるにつれ、この契約に不満を強めたシャネルは20年以上の歳月をかけてパルファム・シャネルの完全な経営権を取得するための努力を続けることになる。彼女は、ピエール・ヴェルテメールは「私をハメた盗賊だ(the bandit who screwed me)」と発言している:153。
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