朝鮮にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 00:39 UTC 版)
織田信長晩年の夢に感化されていた秀吉は、唐入(朝鮮遠征。明征伐)の野望を抱いていた。秀吉は、対馬の領主・宗義調、宗義智らが掛け合えば、朝鮮など元々日本の領地であった所だから一睨みで、帰順朝貢するものだと思い、朝鮮を道案内に立て明征伐の大軍を送ろうとしていた。しかし朝鮮は明国に帰属しており、あまつさえ足利義満が国辱的な外交を行い、日本の威信が失墜していたため、朝鮮に朝貢の意志はなかった。困った小西行長と宗義智は、秀吉の機嫌を損ねぬよう間に挟まれ、朝鮮使節が交隣通信使にすぎぬことは伝えず、つじつまを合わすために朝鮮側と屈辱的な折衝を重ねていたが、ついに堪忍袋の緒が切れて、日本軍は一挙に京城を占領し、朝鮮王は逃亡した。 行長は、明との和平交渉にとりかかるため直に密使を朝鮮軍の本営に送り、明との和平を斡旋せよと、単刀直入、朝鮮軍にきりだした。外交の掛引だの、朝鮮方の心理などには頓着なく、洗いざらい楽屋を打開けたものだから、朝鮮軍は、「日本は明の援軍近しと聞いて、もはや戦意を失っている」と頭から舐めてきて、返事の代わりに逆襲したが、坡州から援兵の日本軍が駈けつけて撃退された。明の大軍が愈々近づき、軍監(参謀)として唐入していた黒田如水は、京城を拠点に要所に城を築いて迎え撃つ要塞戦法を主張した。しかし小西行長は異見を立て、一挙大明進攻の先制攻撃を主張し、他のボンクラ諸将も行長の平壌前進を認めてしまった。無視された如水は全くふてくされ、怒気満々、病気と称して日本へ帰国した。 果たして結果は如水の予想通り、延びすぎた戦線、統一を欠く陣構により全軍敗退。しかし一時は大混乱となったが、小早川隆景、立花宗茂、毛利秀包の戦功で立直り、碧蹄館に勝つことができた。だが明軍もまた立ち直り、周到な陣を構えた。日本にいた秀吉も自ら渡韓し三軍の指揮を決意するが、家康、利家、氏郷ら大名は秀吉を引き留めた。遠征は根底的に無計画、無方針であり、風俗人情の異なる土地を占領しても平穏多幸に統治し得るとは思われぬと考える大名たちがほとんどで、石田三成も淀君を介して秀吉を思いとどまらせようとした。三成が嫌いであった戦争マニアの如水はそれに激昂し、浅野弾正とともに再び渡海した。 その後、明軍も日本の侮りがたい戦力を知り、いずれ日本も落ち目になるだろう、その時叩きつければよいと慎重布陣、両軍相対峙し、みだりに進攻を急ぐことがなくなり、戦局停頓し和議交渉となった。明の沈惟敬は朝鮮軍の情報から、日本は明との貿易復活を欲し、侵略は本意でないと判断した。宋応昌や李如松は自国に有利な条件ばかり要求し、行長を騙して誘いだし、突然包囲し再び戦乱となった。その後の戦乱で食糧難となった日本軍は一時撤退し、再び明との和議交渉となり、沈惟敬と行長が共謀して秀吉の降表を偽造し、秀吉が降伏をして明王の臣下となり、日本国王になるといった意味にしてしまった。これを知った秀吉が激昂し、再征の役が始まった。 戦果があがらず、失敗の様相を帯びてきた朝鮮遠征、50歳過ぎて初めて出来た幼子・鶴松の死、新たに生まれた秀頼への溺愛、養子・秀次との確執などで、秀吉の晩年は我欲と凋落の影がさしてきた。秀次は関白になっていたが、深酒や荒淫で口が常にだらしなく開き、殺人趣味があり、ささいなことで料理人を残虐に殺したりした。だが能の舞は満座の感嘆をさらうほど巧く、我流の秀吉より上だった。秀吉は秀次への憎悪と嫉妬を深くし、父への謀反の疑いとして高野山で切腹を命じ、秀次の妾や子供ら30余名も処刑した。しかし秀次を粛清してみたものの、さらに大きな家康の影が秀吉の行く手に立ちこめていた。秀吉は病床に伏し、枯れ木のように痩せていたが、五大老、五奉行に秀頼の忠誠の誓紙を血判で書かせ、死んでいった。
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