朝鮮にもどる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 05:57 UTC 版)
1950年6月10日、金天海は金桂淡(民衆新聞発行人)とともに、香住丸で鳥取県境港から大韓民国釜山に密航した。金天海は日本共産党中央委員のポスト後継者に韓徳銖を指名した。 同年6月15日、金天海は北朝鮮に密航した。朝鮮戦争が勃発した6月25日、朴烈は、韓国の郊外の料亭で開いた宴会の最中、北朝鮮軍の特殊部隊によって北朝鮮に拉致された。 1951年11月、朝鮮労働党第2回大会で、金天海は労働党中央委員・社会部長に就任した。12月10日、日本へのラジオ演説を開始した。 1952年5月2日、日本向けラジオで「在日同胞に訴う」を演説した。 朝鮮戦争休戦後の1955年7月8日、金天海は平壌放送で在日朝鮮人に向けて「8・15解放10周年を祝おう」と訴えた。 1956年1月27日、祖国戦線議長として「在日朝鮮公民の帰国と大村収容所の釈放問題は正当に解決されるべき」との声明を発表した。 1957年1月1日、朝鮮総連に激励の辞を送った。同年11月18日、祖国戦線第2回大会で議長団に選出された。 1958年、金日成から労働勲章を受けた。 1960年8月13日、「8.15朝鮮解放15周年慶祝訪朝日朝協会使節団」を平壌の飛行場で出迎えた。 1961年、金恩順が北朝鮮に帰国した後、子宮癌で死去すると、金天海は金恩順の葬儀に参列した。 1970年の労働党第5回大会で金天海の名前が中央委員名簿から消えた。以後、金天海の消息は途絶えた。アムネスティー・インターナショナルが発表した勝湖里(平壌市勝湖区域にある)強制収容所の収容者名簿に載ったと伝えられている。
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