幼年期~中年期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 15:13 UTC 版)
現在の山口県光市に生まれる。 難波家は、戦国武将清水宗治より代々清水家の家老職を務めていた。 8歳、難波家11代目になり家督を継ぎ、15歳、清水家10代目清水元周の命により、清水親春の相談役に就任。 18歳、清水家取次役(家老職)に就任する。 覃庵は、清水10代目清水元周、11代目清水親春、12代目清水親知、13代(再家督)清水親春に使えた。 清水親知が、禁門の変で責任を取らされ切腹が決まると、覃庵も殉死しようとしたが親知から説得され親春の再家督を助ける。 藩の財政がよくないとあらば、私財を投じ樟脳製造所を作り財政を支えた。 また、藩士の質を上げようと邸宅内に邸宅内に「養義場」塾を設立する。 翌年には、清水親春の命をうけ長徳寺に「慕義会」塾を設立する。 塾生の中には、後の総理大臣寺内正毅もいた。 清水親春が第二奇兵隊総督に就任すると、参謀を任命され四境戦争において、実質的勝利を治めた。 これは幕府が倒れるきっかけになったといわれている戦争であり、長州藩にとって大きな勝利であった。 難波覃庵は、天皇の行幸にもお供をし、12代目清水親知公とともに江戸へ京都へ萩へと走り回り、外国文化の勉強にも余念なく励み国事に翻弄された人物である。 明治4年に覃庵は国事から、一線を退く。
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