大衆の両院誘拐計画とは? わかりやすく解説

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大衆(だいしゅ)の両院誘拐計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:38 UTC 版)

以仁王の挙兵」の記事における「大衆(だいしゅ)の両院誘拐計画」の解説

安徳即位直後3月1つ事件発生している。それは、園城寺大衆延暦寺興福寺大衆呼びかけ後白河高倉両院誘拐して寺院内に囲い込み朝廷に対して後白河法皇や前関白基房の解放、そして平家討伐命令要求しようとした摂関政治解体以後太政官は最高意思決定機関としての機能喪失し安徳天皇3歳であったことから後白河法皇高倉上皇どちらか治天の君として院政執る必要があった。その両院がいなくなれば朝廷機能停止陥るが、当時は「仏罰」の存在武士達からも信じられていた時代であり、寺院攻撃一種禁忌となっていた(鹿ケ谷の陰謀自体が、清盛への延暦寺攻撃命令対す平氏側の報復とする説もある)。このため公卿たちには要求認めるしか選択肢無くなるだろうという計画であった実際に興福寺同意、親平氏派が多い延暦寺でも反平氏派の恵光房珍慶の集団参加意思示した決行日を高倉上皇厳島行幸に向かう3月17日決定したが、前代未聞計画であったため、興福寺使者鳥羽殿幽閉中の後白河法皇打ち明けたところ、驚いた後白河法皇平宗盛事の次第告げたために、高倉上皇出発日19日変更され失敗終わった。だが、これを機に高倉上皇清盛の間で後白河法皇の安全を理由幽閉所を鳥羽殿から京都市中へ移動させることについて協議された。5月14日深夜後白河法皇鳥羽殿から八条坊門烏丸邸に遷った(『百錬抄』は藤原俊盛邸、『玉葉』は藤原季能邸とする)。引き続き高倉上皇院政執ることになったものの、幽閉生活から解放されることになった以仁王園城寺興福寺頼りにした背景にはこの出来事存在背景にあった思われる

※この「大衆(だいしゅ)の両院誘拐計画」の解説は、「以仁王の挙兵」の解説の一部です。
「大衆(だいしゅ)の両院誘拐計画」を含む「以仁王の挙兵」の記事については、「以仁王の挙兵」の概要を参照ください。

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