清陵墓の盗掘
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はじめは郷里の私塾で学問を習った。しかし同学との喧嘩を教師に咎められた腹いせに、塾の校舎を放火で焼き払ったため、追放された。以後、孫殿英は博徒やアヘン売人として青年時代を送った。匪賊の張治公(中国語版)の配下となり、辛亥革命後に張が劉鎮華率いる鎮嵩軍に第2路として組み込まれると、孫も馬弁(騎兵卒)となる。孫は上官の張平と共謀して軍資金をアヘンの売買に流用し、暴利を貪った。のちに洛陽で民間秘密組織「上仙廟道會」興子の李鳳朝によって王凌霄に引き合わされ、更に大きな力を持った。 1922年(民国11年)に毅軍の河南陸軍第一混成団団長兼豫西鎮守使・丁香玲の副官、機槍連連長、ついで営長。1924年(民国13年)の第2次奉直戦争で直隷派が敗北すると、孫は「河南自治軍」を称して自立し、陝西省や河南省で略奪狼藉をしながら軍を維持していた。翌年、鎮嵩軍に復帰、憨玉琨(中国語版)配下に加わり、第5混成旅旅長に任ぜられた。 1925年(民国14年)3月、憨玉琨が国民軍の胡景翼に敗北すると、孫殿英は国民軍に降り、第3軍第2師(長:葉荃)隷下の混成旅旅長に任ぜられた。副師長を経て、葉の後任で第2師師長に昇進する。しかし、第3軍が陝西省に入省後、すぐに離脱する。途中で略奪を働きながら東進し、山東省の張宗昌配下となり、褚玉璞の下で第5師師長となった。南口の戦いなどで、孫は国民軍を相手に勇戦した。これにより、張や褚の賞賛を受け、直魯聯軍(中国語版)第25師師長に任命されている。 その後中国国民党の北伐軍とも戦い、1927年(民国16年)春、河北省での戦闘の功績から第14軍軍長兼大名鎮守使に任命された。同年2月、直魯聯軍は河南省侵攻を決定、第14軍は河南保衛軍を撃破し、3月22日に開封を占領。しかし、河南省への北伐を開始した馮玉祥率いる第2集団軍に撃退されてしまった。10月、直魯聯軍の河南省再侵攻開始を受け、北部の湯陰県、衛輝市、淇県等を占領するが、孫連仲率いる第3路によって再び撃退されてしまった。 1928年(民国17年)6月、張宗昌は最終的に敗北し、直魯聯軍は崩壊した。孫は蔣介石に降伏して、国民革命軍第6軍団第12軍軍長に任命された。これにより孫は清東陵近辺に駐屯した。その際に孫殿英は、演習の名目で西太后や乾隆帝の陵墓を盗掘し、大量の財宝、文物を奪い去った。この行状は当然ながら国内世論の大々的な非難、糾弾を浴びた。しかし、孫は盗掘した財宝を閻錫山ら高官たちに賄賂として送りその庇護を受け、結局は罰せられることはなかった。
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