宮廷における王女たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 06:12 UTC 版)
8人姉妹のうち年少の4人の王女は、かさむ宮廷費の節約のためと、大勢の王子女に囲まれた王妃の権勢が強まるのを避けるために、1738年から1750年まで、宮廷から遠く離れたポワトゥー地方のフォントヴロー修道院に預けられて養育された。娘たちを道徳的腐敗の蔓延するヴェルサイユから隔離して育てたい父王の意向で、彼女らは成人するまで宮廷に戻らないことになっていた。マダム・テレーズは夭折したため宮廷には戻れず、マダム・ルイーズは成人して宮廷に戻ったものの、修道院での生活の影響を受けすぎて宮廷生活になじめず、結局は宮廷を出奔してサン=ドニのカルメル修道院に逃げ込むことになる。 ルイ15世は慣習上も好みの点でも、最年長の娘を優遇し側に置いていた。1752年に次女アンリエットが死ぬと、三女アデライードがこの立場を引き継ぎ、以後長く父の側近にあって多くの恩恵を享受した。 父王とともに生涯を送り、父王よりも生き長らえたアデライード、ヴィクトワール、ソフィー及びルイーズの4人がヴェルサイユ宮廷における「メダム」として記憶されることになった。ルイ15世はアデライードに「ローグ(Logue、ぼろ切れ)」、ヴィクトワールに「コッシュ(Coche、雌ブタ)」、ソフィーに「グライユ(Graille、ダニ)」、ルイーズに「シフィエ(Chiffie、ゴミくず)」という卑俗な愛称を付けて呼んでいた。父と娘たちはアデライードのアパルトマンで毎朝のカフェの時間を過ごした。 アデライードら4人の王女たちにとって、他国の王族との結婚は他の何にも代えがたいヴェルサイユを離れるという致命的な代償を払うことを意味しており、全くの問題外だった。臣下との結婚も許されず、好都合にも父王は彼女たちを常に側に置きたがった。 メダムは兄のドーファンに同調して、次々に現れる父王の妾たちと長く不毛な対立を続けた。特にポンパドゥール夫人のことは「ママン・ピュタン(Maman putain、娼婦のおばさん)」とか「ポンポン(Pompom)」というあだ名で呼び、機会さえあれば夫人を陥れようと画策した。メダムの道徳観念及び信心の深さは永続的かつ強固なものだった。そうした価値観を姉妹は母王妃や兄と共有し、ジャンセニズムへの寛容や自由思想を強く警戒した。それが原因となって父王との関係が緊張し、そのためにヴェルサイユ宮殿の最も重要な位置である中央棟一階のアパルトマンの占有を許されたのは、かなり後になってからだった。 メダムはポンパドゥール夫人が1764年に死んだ後に権力を握る可能性もあったが、実際にはそうはならず、1769年にルイ15世の最後の公式寵姫となったデュ・バリー夫人の政治的影響力に対して強い嫌悪感を示した。メダムは幼い甥の王太子ルイとその妻マリー・アントワネットを味方に引き込み、特に王太子妃にデュ・バリー夫人を無視させるよう仕向けたことは、王太子妃の実家オーストリアとフランスの外交問題にまで発展した。 1774年に甥のルイ16世が即位すると、アデライードは新王の叔母たちに対する愛情を利用して国政や宮廷への影響力を高めることに希望を抱いたが、すぐに自分の望みが叶えられないことを悟らされた。新国王夫妻を取り囲む宮廷の若い世代が中心的に活躍し始めるにつれ、権力からだんだんを遠ざけられていくのを自覚したアデライードは、妹たちと共にムードンのベルヴュー城(英語版)に生活の拠点を移した。老いた姉妹はポンパドゥール夫人がかつて使っていたこの城を改装しながら、また王妃に対する誹謗中傷の発生源の一つとなりながら、旧体制の最後の日々を過ごした。 メダムの中で最後まで存命していたアデライードとヴィクトワールは、1791年フランス革命の混乱の中を出国し、各地を放浪した末にイタリアに落ち着き、トリエステの寓居で昔を懐かしみながら死んだ。
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