宮廷での復権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/20 14:04 UTC 版)
「フランセス・ブランドン」の記事における「宮廷での復権」の解説
ジェーンの政権がわずか9日間で崩壊した後、王位に就いたメアリー1世はフランセスとの友情を慮り、すぐにグレイ家の者に赦しを与えた。しかし、ジェーンと夫ギルフォードはそのままロンドン塔内の牢に収監され、7月28日にはヘンリー・グレイも逮捕された。フランセスは必死の思いで女王に家族の助命を嘆願した。フランセスはノーサンバランド公爵一派として彼女を非難する声にも屈しなかった。ヘンリー・グレイが収監中に次第に健康を害すると、フランセスはジェーンの最も重要な庇護者と見なされていたノーサンバランドを、夫を殺そうとしたと主張した。フランセスの告発は、ジェーンだけに罪を被せて自分の家族を救おうとしていたノーサンバランド公爵夫人の目論見をつぶすものとなり、ジェーンの立場に有利に働いた。メアリー女王はフランセスの嘆願を聞き入れて、7月31日にヘンリー・グレイを釈放した。ジェーンは牢に入れられたままだったが、メアリー女王は彼女についても恩赦を与える気でいた。 しかしヘンリー・グレイはメアリー1世に対する反乱に参加したことで、長女ジェーンと運命を共にすることになった。ワイアットの乱鎮圧後、再逮捕されたヘンリー・グレイと収監されたままだったジェーンは、父娘ともども大逆罪で死刑を宣告された。ジェーンは1554年2月12日に、ヘンリーは2月23日に処刑された。家族の中でフランセスは唯一人、メアリー女王に謁見を許され、少なくとも自身の恩赦を得ることが出来た。この困難な時期にフランセスと下の娘2人が宮廷への復帰を許されたのは、恩赦を象徴する出来事だったと言える。ヘンリー・グレイの財産は死刑宣告に伴って政府に没収されたため、フランセスと2人の娘には何も残されなかった。次女キャサリンは、姉ジェーンの失脚直後に義父から夫ヘンリー・ハーバートとの結婚無効を言い渡されたので、フランセスには未成年の2人の娘を1人で養う責任が生じた。女王の恩赦が出た後、フランセスが死んだ夫の財産を取り戻すことは法的には可能だったが、実際に財産を取り戻すにはしばらくの時間がかかった。 カトリック信徒のメアリーの治世下、フランセスはプロテスタントへの共感を隠し、体制に順応して便宜的にカトリックを奉じた。しかし次の逸話は、フランセスがかなりの程度プロテスタントの宗教活動に協力していたことを窺わせる。プロテスタント派の印刷業者ジョン・デイ(英語版)がジェーン本人の書いた書簡を入手し、フランセスやその継母キャサリン・ウィロビー(英語版)と親交のあったサー・ウィリアム・セシルが用意した隠れ家で書簡を印刷しているのである。当時、ジェーン直筆の手紙を印刷したパンフレットを出回らせることは、ジェーンを失脚させて即位したメアリー女王の統治を非難する最も痛烈なやり方であった。ジョン・デイによるジェーンの手紙の入手経路は不明であるが、ジェーン自身の母フランセスから提供されたというのが、出所としては最も可能性が高い。万一フランセスがこのパンフレット騒動に関与していたとしても、メアリー女王がそれに気付くことはなく、1554年4月にはフランセスに財産の一部を返還した。同年7月、フランセスは女王私室(英語版)付きの女官に任命され、彼女はいつでも女王と接することのできる、宮廷で最も女王個人と近しいグループの一員となった。2人の娘キャサリンとメアリーも宮廷の女官に任命された。
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