実弟との内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:14 UTC 版)
「カールマーン (ハンガリー王)」の記事における「実弟との内戦」の解説
カールマーンは1105年に王子イシュトヴァーン(のちのイシュトヴァーン2世)を即位・戴冠させ、そのために神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の宮廷に行っていたアールモシュ公が反乱を起こした。しかし皇帝は自身の息子ハインリヒ(のちのハインリヒ5世)と反乱側とを交戦させた。アールモシュは帰国せざるをえなくなり、兄の統治を受け入れた。 しかしアールモシュは自分の王位請求を断念しなかった。彼はポーランドへ逃れると、ポーランド公ボレスワフ3世と、兄に対して兵を挙げることで同意した。しかしカールマーンはボレスワフに全権公使を送り、神聖ローマ皇帝に対し同盟を結ぶよう説得した。そのためにアールモシュは帰国を強いられ、王の許しを請わねばならなかった。 1107年、カールマーンとボレスワフ3世は、ボヘミア公ボリヴォイ2世に対抗してボヘミア公スヴァトプルクに援助を与えた。翌1108年、ボレスワフ3世はカールマーンの支援を受け実兄Zbigniewの反乱に打ち勝った。同年、アールモシュの聖地への巡礼につけこんで、実弟の公国を占領した。 1108年、カールマーンはダルマチアを訪問し、トラウ(現トロギル)、ザーラ(現ザダル)、シュパラト(現スプリト)の市特権を認証した。 聖地からアールモシュが帰国すると、彼の領土が王領に併合されたことを悟り、彼は再び神聖ローマ皇帝の宮廷へ逃亡した。彼の要請により、ハインリヒ5世はポソニ(現ブラチスラヴァ)を包囲した。カールマーンは、ボヘミアを攻撃していたボレスワフ3世の支援を求めた。11月、皇帝はカールマーンと和平を結び、アールモシュをハンガリー宮廷へ戻させた。ところが、アールモシュの公国は復活しなかった。すぐ後にカールマーンはニトラ司教領を設立したのである。
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