実弟中神明との別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:31 UTC 版)
昭和17年(1942年)1月15日に、ハルビンの鉄道工場の庶務課長より僕の自宅へ電話で「福井さんの弟さんといわれる人で、東辺道に駐とんしておられた方が、今朝ハルビンを発ち大連へ向かわれたのでお知らせする」との伝言があり、さっそく準備しその日の夜行列車で家族一同を連れ大連へ向かった。翌朝、大連に到着後、ただちに宿営所であった西公園内の保健館へ行って見るが、その約一時間前に乗船のため大連埠頭へ向かったとのこと。軍事輸送担当者として軍隊が宿泊地を立って一時間ぐらいで出航するハズがないと判断し、大連埠頭へ行き輸送司令部の岸本司令官をたずね事情を説明すると「今、乙ふ頭に停泊している船が間もなく南方に向けて出航する予定だ」とのことで、岸本中佐が案内してくれるとのことであったが、同氏も多忙なようなので、軍嘱託の腕章を借用し一人で乙ふ頭の輸送船へ行き、船長室兼輸送司令官室へ行き、司令官に面接し事情を説明したところ「あと一時間で出航だがそれまでは連れて下船してもよいが、責任をもって帰船さして欲しい」とのことであった。時あたかも1月16日の午前八時ごろであるので、外は寒いが連れだしてふ頭の待合室で家族に会わせ軽い朝食を共に、司令官が酒が好きとのことに、日本酒「月桂冠」二本(奉天より持参したもの)と、手持ちの日本紙幣(満洲で一般に通用している満洲国中央銀行発行の紙幣は、南方では使用できない)十円券の手持ちのもの(四枚しかなかった)およびロシアチョコレート一箱をもたせ、これが弟、明(中神庫三郎の養子となっている)との最後の別れとなっている。後に明がビルマのラングーンの病院で戦病死したとの電報を受ける。明は満洲を出るときに風邪を引いたのではないだろうか。その風邪が戦病死の原因ではないかということである。というのは、陸軍では極寒零下三十度の虎林にいた部隊が、大連へ来たとたんに、関東軍給与たる冬装束から南方軍給与の夏装束に変えさせられたのだ。ところが、大連の1月16日は、零下十度以下の寒さである。船から連れだし、家族の待つふ頭の旅客待合室まで往復七百メートルは駆け足で走ったが、どんなにか寒かっただろう。
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