ブルグントの支配者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 08:10 UTC 版)
「ブルグント王の一覧」の記事における「ブルグントの支配者」の解説
コンラート及びルドルフ3世のもとで王権は弱体化し、一方でブルグント伯のような地方の貴族が台頭していった。 神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が早期に死んだ後に未亡人アグネスは自分の幼少の息子であるハインリヒ4世の摂政として活動した。アグネスはルドルフ1世をシュヴァーベン大公に任命し、合わせてブルグント全体の支配権を委ねた。しかし、ルドルフ1世が対立王に選出された時、成長したハインリヒ4世は1079年にその力を奪い、ローザンヌとシオン(現在のスイス)の司教領に派遣した。 1127年3月1日にブルゴーニュ伯ギヨーム3世が暗殺されると、ロタール3世はギヨーム3世の母方の叔父でルドルフ1世の外孫であるツェーリンゲン家出身のツェーリンゲン大公コンラート1世の伯領への請求権を支持し、ブルグントの全権を委ねた。 適当な称号を欠いていたことから、ツェーリンゲン家はブルグント公の地位を得るため自分でブルグントの公及び支配者と名乗った。しかしながら大公家の書記官達は一貫してこの部分を避け、en:rector(ローマ法では地方総督の一般的な概念である)はツェーリンゲン家が統治するユーラ東部に限られるようになった。 ツェーリンゲン家の請求権の強行及び王国の西部及び東部への王権の拡大といった幾つかの試み(その中で最も著名なのは1153年の遠征である)は失敗した。これらの失敗の後、皇帝フリードリヒ1世はブルゴーニュ伯領の相続人であったベアトリス1世と結婚したことにより1156年までに確固たる支配を築いた。この相続は永続的にツェーリンゲン家をユーラとアルル間に限定させることになり、そこで同家は権威を拡大させた。1218年にコンラート1世の孫のベルトルト5世は後継を残すことなく没し、ツェーリンゲン家は断絶した。 この後、ローマ王フリードリヒ2世はツェーリンゲン家の遺領を所有するために、それに見合う称号として息子のハインリヒ7世にブルグントの支配者の称号を与えた。この任命は単に一時的な重要なもので、ハインリヒ7世が1220年4月にローマ王に選ばれるとこの称号は消滅した。またブルグント王国内部での王権の失墜は不可逆であった。
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