ジェームズ3世
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ジェームズ3世、ジェームス3世、ジェイムズ3世、ジェイムス3世(James III)
- ジェームズ3世 (スコットランド王)(在位:1460年 - 1488年)
- ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(老僭王)のイングランド王(ジャコバイトの王としての自称。
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ジェイムズ3世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 21:05 UTC 版)
「中世後期のスコットランド」の記事における「ジェイムズ3世」の解説
詳細は「ジェームズ3世_(スコットランド王)」を参照 その時9歳か10歳であったジェイムズ2世の息子がジェイムズ3世として王となった。ジェイムズ2世の寡婦であるメアリー・オブ・グエルダースが、3年後に彼女自身が亡くなるまで、摂政として統治した。ロバート・ボイド(Robert, Lord Boyd)を頭とするボイド家(en:Clan Boyd)が統治内で最も影響力を持つ存在となり、ロバートの息子であるトマス・ボイド(Thomas Boyd)がアラン伯としたうえで王の妹メアリ(Mary)と結婚させ、自己権力を拡大していった。1469年、ロバートとトマスがスコットランドの外にいる間に、王ジェイムズは自身の支配を主張し、ボイド家の一団を処刑した。彼のイングランドに対する外交政策は和睦であり、長男であるジェイムズ(のちのジェイムズ4世)をエドワード4世の娘であるセシリー・オブ・ヨーク(en:Cecily of York)と婚約させた。この政策の変化は国内では非常に不人気であった。 1470年代には王ジェイムズと2人の弟であるオールバニ公アレグザンダー(Alexander, Duke of Albany)とマー伯ジョン(John, Earl of Mar)との間の対立が激化した。マー伯は1480年に不審にも死亡し、没収された彼の所領はおそらく王の寵臣であるロバート・コクラン(Robert Cochrane)に与えられた。オールバニ公は1479年にフランスへと逃れ、反逆で訴えられた。この時点までにはイングランドの同盟は弱まっており、1480年からは間欠的な戦争が起こり、2年後にはグロスター公(のちのリチャード3世)によって率いられた軍によってスコットランドは大規模に侵入された(en)。ジェイムズはエディンバラ城で自身の家臣によって捕らえられ、イングランド軍に加わっていたオールバニ公が摂政として立てられた。ベリックを奪取したイングランド軍は撤収し、オールバニ公の政府は破綻し始め、彼は逃走を強いられた。陰謀やさらなる侵入の計画にもかかわらず、王ジェイムズは権力を回復することができた。しかし、王は重臣たちを遠ざけようとし、裁判のための国内巡行を拒んでエディンバラに居住することを好み、貨幣を改悪することで財政危機を招き、イングランドとの和睦に固執し続け、彼のチャンセラーであったコリン・キァンベル(en)のような重要な支持者でさえも解任し、妻であるマーガレット・オブ・デンマークや息子であるジェイムズとも疎遠になった。1488年に諸問題は頂点に達し、寵愛を失った有力者や多くのかつての顧問たちによって率いられ、ジェイムズ4世とする王子の名の下で行動する軍は王ジェイムズ3世に立ち向かった。ジェイムズ3世はソーキバーンの戦いで破れ、殺された。
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