ジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォードとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 音楽家 > 歌手 > アメリカ合衆国の歌手 > ジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォードの意味・解説 

ジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/05/01 13:03 UTC 版)

ジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォード
ジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォード (1996年)
基本情報
出生 1934年10月12日
米国ルイジアナ州ニューオーリンズ
死没 2012年9月15日(満77歳没)
ジャンル R&Bポップ
職業 歌手
担当楽器 ヴォーカルピアノ
活動期間 1950年 - 1969年
レーベル アラディン・レコード
チェッカー・レコード
インペリアル・レコード
スペシャルティ・レコード
共同作業者 シャウィーズ
ダヴェル・クロフォード

ジェイムズ"シュガー・ボーイ"クロフォード (James "Sugar Boy" Crawford1934年10月12日[1] - 2012年9月15日) は、米国ルイジアナ州ニューオーリンズR&Bシンガーピアノ奏者ドクター・ジョンなどがカバーした"アイコ・アイコ"のオリジナル・アーティストとして知られている。シンガー、ピアニストのダヴェル・クロフォードは彼の孫にあたる。

来歴

1934年、ニューオーリンズに生まれたクロフォードは、市内のアップタウンで幼少期を過ごした[2]。ニックネームの"シュガー・ボーイ"は「可愛い子」を意味する幼い頃の呼び名に由来している[1]

1950年、ニューオーリンズのブッカーT.ハイスクールに在学中、同級生とバンドを結成する[2]。このバンドは、1952年アラディン・レコードよりシャウィーズの名前で“No One To Love Me”/“Early Sunday Morning”でデビューを果たした。

1953年チェス・レコードとも契約するが、アラディンとの契約が存続していたため、シュガー・ボーイ&ザ・ケイン・カッターズ名義での契約であった[1]。同年、後に"Iko Iko"として知られることになる"Jock-A-Mo"を傘下のチェッカー・レコードよりリリースする。この曲は、マルディグラ・インディアンのチャントにクロフォードが曲を付けたもの[1]。レコーディングにはスヌークス・イーグリンがギターで参加した。

チェスで3枚のシングルをリリースしたのち、クロフォードは1960年代の前半までに、スペシャルティインペリアル、エイス、ピーコックなどのレーベルからシングルをリリースし続けた[2]

1963年、彼は自動車に乗ってバンドとともに演奏先へ向かっていた際、当時は違法とされていた黒人が派手な新車を乗り回していた"罪"で警官に止められた。この際暴行を受け入院したクロフォードは、同時に2年間の免許停止処分を受けた[1]。クロフォードは、この事件により活動の中断を余儀なくされることになる。一度は復帰を目指したものの、1969年以降はゴスペルを歌うようになり、R&Bからは身を引いてしまった。

1995年、ダヴェル・クロフォードのアルバムLet Them Talkにゲスト参加し、久々に元気なところを聴かせている。以後、ダヴェルとともに1996年のニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル[1]、2008年のポンデロサ・ストンプ[3]など、いくつかのライブ出演を果たしている。

2012年9月15日、病気のために死去[4]。77歳没。

ディスコグラフィー

脚注

外部リンク


ジェイムズ・"シュガー・ボーイ"・クロフォード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/19 03:36 UTC 版)

ジェイムズ・"シュガーボーイ"・クロフォード
ジェイムズ・"シュガーボーイ"・クロフォード (1996年)
基本情報
生誕 (1934-10-12) 1934年10月12日
米国ルイジアナ州ニューオーリンズ
死没 (2012-09-15) 2012年9月15日(77歳没)
ジャンル R&Bポップ
職業 歌手
担当楽器 ヴォーカルピアノ
活動期間 1950年 - 1969年
レーベル アラディン・レコード
チェッカー・レコード
インペリアル・レコード
スペシャルティ・レコード
共同作業者 シャウィーズ
ダヴェル・クロフォード

ジェイムズ・"シュガー・ボーイ"・クロフォード (: James "Sugar Boy" Crawford1934年10月12日[1] - 2012年9月15日) は、米国ルイジアナ州ニューオーリンズR&Bシンガーピアノ奏者ドクター・ジョンなどがカバーした"アイコ・アイコ"のオリジナル・アーティストとして知られている。シンガー、ピアニストのダヴェル・クロフォードは彼の孫にあたる。

来歴

1934年、ニューオーリンズに生まれたクロフォードは、市内のアップタウンで幼少期を過ごした[2]。ニックネームの"シュガー・ボーイ"は「可愛い子」を意味する幼い頃の呼び名に由来している[1]

1950年、ニューオーリンズのブッカーT.ハイスクールに在学中、同級生とバンドを結成する[3]。このバンドは、1952年アラディン・レコードよりシャウィーズの名前で“No One To Love Me”/“Early Sunday Morning”でデビューを果たした。

1953年チェス・レコードとも契約するが、アラディンとの契約が存続していたため、シュガー・ボーイ&ザ・ケイン・カッターズ名義での契約であった[1]。同年、後に"Iko Iko"として知られることになる"Jock-A-Mo"を傘下のチェッカー・レコードよりリリースする。この曲は、マルディグラ・インディアンのチャントにクロフォードが曲を付けたもの[1]。レコーディングにはスヌークス・イーグリンがギターで参加した。

チェスで3枚のシングルをリリースしたのち、クロフォードは1960年代の前半までに、スペシャルティインペリアルエイス、ピーコックなどのレーベルからシングルをリリースし続けた[3]

1963年、彼は自動車に乗ってバンドとともに演奏先へ向かっていた際、当時は違法とされていた黒人が派手な新車を乗り回していた"罪"で警官に止められた。この際暴行を受け入院したクロフォードは、同時に2年間の免許停止処分を受けた[1]。クロフォードは、この事件により活動の中断を余儀なくされることになる。一度は復帰を目指したものの、1969年以降はゴスペルを歌うようになり、R&Bからは身を引いてしまった。

1995年、ダヴェル・クロフォードのアルバムLet Them Talkにゲスト参加し、久々に元気なところを聴かせている。以後、ダヴェルとともに1996年のニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル[1]、2008年のポンデロサ・ストンプ[4]など、いくつかのライブ出演を果たしている。

2012年9月15日、病気のために死去[5]。77歳没。

ディスコグラフィー

脚注

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォード」の関連用語

ジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォードのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォードのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジェイムズ"シュガーボーイ"クロフォード (改訂履歴)、ジェイムズ・"シュガー・ボーイ"・クロフォード (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS