ジェームズ4世 (スコットランド王)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/24 14:59 UTC 版)
ジェームズ4世 James IV |
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スコットランド国王 | |
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在位 | 1488年6月11日 - 1513年9月9日 |
戴冠式 | 1488年6月24日 |
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出生 | 1473年3月17日![]() スターリング城 |
死去 | 1513年9月9日(40歳没)![]() |
配偶者 | マーガレット・テューダー |
子女 | ジェームズ5世 |
家名 | スチュワート家 |
王朝 | スチュワート朝 |
父親 | ジェームズ3世 |
母親 | マーガレット・オブ・デンマーク |
ジェームズ4世({James IV, 1473年3月17日 - 1513年9月9日[1])は、スコットランド王(在位:1488年 - 1513年)。ジェームズ3世とデンマーク王クリスチャン1世(スウェーデンとノルウェーの王も兼ねた)の娘マーガレット(マルグレーテ)の子。
生涯
1488年、ソーキバーンの戦いで死んだ父の跡を継いで15歳で即位[2]。ソーキバーンの戦いでは反乱軍の名目上の指導者となっていたのであるが、父の死に際して自分が演じた役割に気付いて、四旬節のたびごとにシリスを着用して自らの罪の償いを行った。
ジェームズ4世は大変有能な統治者で、反乱を鎮圧し、芸術を奨励し[3]、銃器製造や造船業[4]などにとりわけ力を注いだ。イングランドとは1502年に平和条約(Treaty of Perpetual Peace)を締結し[5]、1503年にヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーとホリールード寺院で結婚式を挙げた。2人の間には4男2女が生まれたが、成人したのは三男のジェームズ(のちのジェームズ5世)だけだった[6]。
イタリア戦争の余波でイングランドとフランスの間で戦争が始まると、イングランドとの平和条約とフランスとの古い同盟 (Auld Allianc) の板挟みになった。1513年イングランドの新しい王ヘンリー8世がフランスへの侵入を図ると、イングランドへ宣戦布告したが[7]、フロドゥンの戦いでノーフォーク公に大敗し、ジェームズ4世も戦死した[8][9]。
子女
マーガレット・テューダーとの間には以下の4男2女が生まれたが、三男のジェームズ以外は早世した。
- ジェームズ(1507年2月21日 - 1508年2月27日)
- 女子(1508年7月15日) - 生まれた日に死去
- アーサー(1509年10月20/21日 - 1510年7月14/15日)
- ジェームズ5世(1512年 - 1542年) - スコットランド王
- 女子(1512年11月) - 生まれた日に死去
- アレグザンダー(1514年4月30日 - 1515年12月18日) - ロス公
マリオン・ボイドとの間に以下の庶子をもうけた。
- アレグザンダー(1493年? - 1513年) - セント・アンドルーズ大司教
- キャサリン(? - 1554年以降) - 第3代モートン伯爵ジェームズ・ダグラスと結婚
ジャネット・ケネディとの間に以下の庶子をもうけた。
- ジェームズ(1500年 - 1544年) - 初代マリ伯
初代ドラモンド卿ジョン・ドラモンドの娘マーガレットとの間に以下の庶子をもうけた。
- マーガレット(1497年? - ?) - ゴードン卿ジョン・ゴードンと結婚、のちサー・ジョン・ドラモンドと結婚。
初代バカン伯爵ジェームズ・ステュアートの娘イザベラとの間に以下の庶子をもうけた。
- ジャネット(? - 1560/3年) - 第3代フレミング卿マルコム・フレミングと結婚
脚注
参考文献
- 森護 『スコットランド王室史話』 大修館書店、1988年
- ナイジェル・トランター 『スコットランド物語』 大修館書店、1997年
- Alison Weir, Britain's Royal Families, Vintage, 2008.
ジェイムズ4世
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「中世後期のスコットランド」の記事における「ジェイムズ4世」の解説
詳細は「ジェームズ4世_(スコットランド王)」を参照 ジェイムズ4世は王位に就いたとき15歳であったが、すぐに有能で自立した志を持つ支配者であることを示した。彼の治世は、ヨーロッパ的ルネサンスの影響のもとでスコットランド文化が花開いたとしばしばみなされる。彼は裁判の行使に直接の関心を示し、巡回裁判のために頻繁に自身の宮廷を移動させた。彼は、主に殺害されたジェイムズ3世の支持者による大規模な北部の反乱を鎮圧した。その反乱は、レノックス伯(Earl of Lennox)とライル卿ロバート・ライル(Robert Lyle)に率いられて1489年にダンバートンに始まり、北部へと広がっていった。ジェイムズは、独立的な島嶼の領主権(Lordship of the Isles)を最終的に支配下に置いた功績が認められている。彼は、1493年に最後の領主ジョン・マクドナルド(John MacDonald)から土地を没収することで強行し、その地域のアレグザンダー・ゴードン(en:Alexander Gordon, 3rd Earl of Huntly)の勢力を後押しし、幾度かの海軍遠征と包囲戦を行った。1507年までに島嶼陣営は捕獲されるか、あるいは亡命させられるかの結果に終わった。 一時期、ジェイムズはイングランド王位僭称者パーキン・ウォーベック(Perkin Warbeck)を支持し、1496年に彼のためにイングランドへと短い侵入を断行した。しかし、その後彼はイングランドと有効な外交関係を築き、1502年に恒久和平(Treaty of Perpetual Peace)を結び、ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーと結婚した。かくして、17世紀の王冠連合(Union of the Crowns)の下地を作ることになった。ヘンリー8世への敵意は、1512年のフランスとの古い同盟の更新を促すことになった。1511年に教皇が対フランス一大同盟を結成しようと、イングランドを含む神聖同盟を提唱したとき、ジェイムズは相容れない外交政策のあいだで窮してしまった。彼は、コンスタンティノープルへのヨーロッパ規模の十字軍という実現しそうにない計画を提案しようとしたが、国境付近での小競り合いのあとフランスがイングランドによって攻撃されたとき、ジェイムズはイングランドに対して宣戦布告し、教皇によって破門された。彼はフランスを助けようと船団と砲手を送り、1513年、おそらく34000を超える軍を国境を越えて率いた。ノラム城(Norham Castle)を奪取しようと強力な砲弾を使ったあと、彼は南へと進軍した。1513年9月9日、フロドゥンの戦いで侵入は完全に停止した。王ジェイムズと多くの有力者、多数の兵士たちが殺され、この戦いは「森の花」("The Floo'ers o' the Forest")の歌に伝えられている。かくして、スコットランドの統治はジェイムズ5世の名の下で再び摂政の手に置かれることになった。
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