国政を乱すとは? わかりやすく解説

国政を乱す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 00:54 UTC 版)

慕輿根」の記事における「国政を乱す」の解説

360年1月慕容儁崩御し嫡男慕容暐即位した。死の間際慕輿根慕容儁より呼び出されると、大司馬慕容恪司徒慕容評司空陽騖と共に慕容暐の輔政を託された。 2月慕輿根太師抜擢され国政中枢を担うようになったまた、慕容恪太宰として朝政主導権握ったが、慕輿根心中では慕容恪の事を見下しており、隙あらば朝廷混乱させて自らが政権掌握しようと考えていた。当時皇太后の可足渾氏は政治深く介入していたので、慕輿根はこれを契機とみて慕容恪へ「今、主上慕容暐)はまだ幼く母后(可足渾氏)は政事深く干渉しております殿下慕容恪)は楊駿諸葛元遜諸葛恪)の身に起こった変事をよく考え、自らの身の安全を保つにはどうすべきかよくお考え下さい。それに、天下定めたのはまさしく殿下功績中原制圧した事を指す)であり、兄が死んで弟が受け継ぐのは古今習わしでもあります(殷の時代の法であった)。先帝埋葬済み次第主上廃立して代わって王になられるのが宜しいかと思います殿下が自ら尊位(皇帝の位)に即くことで、この大燕無窮の幸福をもたらすことになりましょう」と進言し、両者仲たがいさせようとした。だが、この発言慕容恪憤慨し「公(慕輿根)は酔っているのか。何というたわけた事を言うのだ。我と公は先帝より遺詔受けているというのに、どうしてそのような議論をするのだ。昔、曹臧(春秋時代曹の宣公の子公子欣時、字は子臧)と呉春秋時代呉の公族季札はいずれ家難の際にあったが、それでもなお君主となる事はその節非ずと言ったのだ。今、儲君皇太子の事。ここでは慕容暐の事)が後を継いで四海患いなく国を統べているというのに、遺言受けた宰輔宰相)がどうして私議を語るのか!公は先帝お言葉忘れたというのか」と叱責したので、慕輿根はひどく恥入り謝罪して退出した遂に慕輿根武衛将軍慕輿干と結託し慕容恪同じく朝廷重鎮である慕容評ともども誅殺しようと企むようになった。その為、慕輿根は可足渾氏と慕容暐の下へ出向くと、彼らへ向けて太宰慕容恪)と太傅慕容評)が謀反企てております。臣が禁兵近衛兵)を率いて彼らを誅殺し、社稷安んじることをお許しください」と偽りの進言行った。可足渾氏はこれを信用して許可しようとしたが、慕容暐が「二公は国家の親賢(親族賢臣)です。先帝により選ばれ孤児寡婦慕容暐と可足渾氏)の補佐をしてくれているのです。必ずやそのような事はしません。それに、太師こそが造反考えているのでないとも限らないでしょう!」と反対したため取りやめとなったまた、慕輿根東土中国東側前燕がかつて本拠地としていた遼西地方を指す)を懐かしみ、可足渾氏と慕容暐向けて「今、天下混迷し、外敵も一つではありません。この国難大い憂えているところであり、東の地へ戻られるべきかと存じます」と訴え還都強行しようとしたが、慕容暐止められた事もあった。 ここにおいて次第慕輿根反心が明らかとなり、これを聞いた慕容恪遂に誅殺決め慕容評と謀って密かにその罪状奏上した。これにより慕輿根秘書監皇甫真・右衛将軍傅顔により捕らえられると、宮殿内誅殺された。彼の妻子側近同じく罪に伏して処刑され慕輿根ともども首は東市晒された。

※この「国政を乱す」の解説は、「慕輿根」の解説の一部です。
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