国政への注力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 04:13 UTC 版)
フランチェスコ2世と死別し、45歳で未亡人となったイザベラはマントヴァ侯国の摂政として「国政に専念」するようになっていった。イザベラは都市国家を運営する統治者としてさまざまな問題に直面するようになった。マントヴァ侯家の臣民を満足させるために、イザベラは建築、農業、産業などを学び、ニッコロ・マキャヴェッリの君主のありようを解説した著作『君主論』を規範とした。卓越した政治手腕を発揮するイザベラに、マントヴァの臣民は敬意と愛情の念を捧げていたといわれている。 1527年にイザベラはマントヴァを離れてローマへ向かった。当時のローマは神聖ローマ皇帝カール5世軍による徹底的なローマ略奪のさなかだった。イザベラは自身のローマの邸宅を避難民収容所に転用し、皇帝軍がら逃れてきた約2,000名の難民を迎え入れた。イザベラの息子であるマントヴァ侯フェデリーコ2世がローマ皇帝寄りだったために、イザベラの邸宅は皇帝軍による破壊から免れていた数少ない建物の一つとなっていたのである。イザベラは自身がローマを離れるときに、邸宅に保護を求める難民の安全を確保できるように全力を尽くした、
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