国政への参与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:56 UTC 版)
宋との戦の後、朝廷では李常傑の健闘を賞して爵位を下賜した。李常傑は国政に対し「内樹寬明、外馳簡恵」の精神で当たり、奸悪なる者は「威而殲悪」、訴訟問題は「獄無濫之」、さらに農政も怠ることなく安んじた。時の人はその統治を「莅民之本、安国之術」と称した。また、李常傑は当時の大越で隆盛していた仏教を深く信仰し、老僧のために寺院を建立した。 龍符4年(1104年)2月、仁宗は齢85の李常傑にチャンパへの再征を命じた。原因は、朝廷に背いた李覚なる者がチャンパに亡命し、チャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン2世に「大越を攻め、先に割譲したデリー、メリー、ポー・トリンの3州を奪還すべきだ」と唆したからである。命を受けた李常傑はチャンパ軍を破り、3州を回復した。 翌龍符5年(1105年)6月、李常傑は死去した。「入内殿都知検校太尉平章軍国重事越国公」と追贈され、食邑と爵位は弟の李常憲が継承した。
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