ディスペンサー父子の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 14:10 UTC 版)
「エドワード2世 (イングランド王)」の記事における「ディスペンサー父子の台頭」の解説
一方宮廷ではヒュー・ル・ディスペンサー(大ディスペンサー)とその同名の息子(小ディスペンサー)の親子がエドワード2世の寵愛を得て台頭していた。 ディスペンサー親子の寵愛も諸侯の反発を買い、ディスペンサー親子は諸侯の圧力で1321年に国外追放処分となったが、その翌年には国王が呼び戻した。これを知ったランカスター伯ら諸侯はディスペンサー追放を求めて挙兵するが、ペンブルック伯らランカスター伯と対立する諸侯が参加しなかった。結局ランカスター伯は1322年3月のバラブリッジの戦いで王軍に敗北し、捕らえられて処刑された このバラブリッジの戦いの勝利により宮廷勢力(エドワード2世とディスペンサー父子)は権力を回復させ、1322年のヨークでの議会では先の改革勅令を全体として廃止できた。 小ディスペンサーは実務嫌いのエドワード2世から実務を任されて、その恩賞で領地をどんどん拡大させ、さらに賄賂で私腹を肥やした。大ディスペンサーもウィンチェスター伯に叙されて厚遇された、 以降5年ほどディスペンサー父子が国政を主導していくが、この間ディスペンサー父子の専横への怨嗟はどんどん高まっていた。特にウェールズにおける所領の拡大はウェールズ辺境諸侯(英語版)の強い反発を招いた。また1324年9月には王妃イザベラの所領が没収されたことでディスペンサー親子は王妃も敵に回すことになった。
※この「ディスペンサー父子の台頭」の解説は、「エドワード2世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「ディスペンサー父子の台頭」を含む「エドワード2世 (イングランド王)」の記事については、「エドワード2世 (イングランド王)」の概要を参照ください。
- ディスペンサー父子の台頭のページへのリンク