ハイド家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 06:37 UTC 版)
エドワード・ハイド(1609-1674)は清教徒革命(イングランド内戦)の際に立憲王党派として行動して共和政期にはチャールズ2世の亡命宮廷に仕え、1660年の王政復古後にチャールズ2世の宰相(大法官)となり、1667年の失脚まで国政を主導した。彼の娘アン・ハイドはジェームズ2世の最初の妻であり、後の女王メアリー2世とアンの母である。 エドワード・ハイドは王政復古まもない1660年11月3日にイングランド貴族爵位「ウィルトシャー州におけるヒンドンの初代ハイド男爵(Baron Hyde, of Hindon in the County of Wiltshire)」に叙され、ついで1661年4月20日にイングランド貴族爵位クラレンドン伯爵と「オックスフォード州におけるコーンベリー子爵(Viscount Cornbury in the County of Oxford)」に叙せられた。 初代伯の長男第2代クラレンドン伯ヘンリー・ハイド(英語版)(1638-1709)とその一人息子の3代クラレンドン伯エドワード・ハイド(英語版)(1661-1723)は、ともに襲爵前にトーリー党の庶民院議員を務めた 3代伯が死去した際、生存している男子がなかったため、クラレンドン伯爵位は初代伯にさかのぼっての分流である第2代ロチェスター伯爵ヘンリー・ハイド(1672-1753)(初代伯の次男ロチェスター伯爵(英語版)ローレンス・ハイド(1642-1711)の子で3代伯の従弟)に継承された。しかし彼が死去した際にも生存している男子はなく、彼の死去をもって継承者は絶え、爵位は廃絶した。
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