アン・ハイドとは? わかりやすく解説

アン・ハイド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/13 04:04 UTC 版)

アン・ハイド
Anne Hyde
ヨーク公爵夫人

出生 1637年3月12日22日
イングランド王国バークシャー
死去 1671年3月31日
イングランド王国セント・ジェームズ宮殿
埋葬 1671年4月5日
イングランド王国ウェストミンスター寺院
配偶者 ヨーク公ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ2世
子女 一覧参照
父親 クラレンドン伯爵エドワード・ハイド
母親 フランシス・アリスバーリー
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アン・ハイドAnne Hyde, 1637年3月12日22日 - 1671年3月31日)は、ヨーク公ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ2世)の最初の妻。ジェームズの王位継承以前に死去したため、王妃にはなれなかった。2人の女王メアリー2世アンの母。初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドとフランシス・アリスバーリーの娘で第2代クラレンドン伯爵ヘンリー・ハイド、ロチェスター伯爵ローレンス・ハイドの姉。

生涯

1637年、バークシャーで生まれる。1658年、ヨーク公ジェームズはハーグにいた姉メアリー・ヘンリエッタオラニエ公ウィレム2世妃、イングランド王ウィリアム3世の母)を訪ねた際、姉に侍女として仕えていたアンと出会う。ジェームズは、アンが平民にすぎないため(当時エドワード・ハイドは兄チャールズ2世の亡命政権の国務大臣でしかなく、爵位も領地もなかった)愛人となるよう迫るが、アンは承知しなかった。どうしてもアンをそばにおきたいジェームズは、「2人の間に生まれる子供は、王政復古後にイングランドの法律によって嫡出子として認める」旨の約束をし、ようやく彼女を手に入れた。

1660年4月、アンの妊娠が明らかとなるが、ジェームズは正式の結婚を躊躇した。気をもんだのは、女性への手の早さでは弟をはるかにしのいだチャールズ2世で、「約束した以上はそれを守れ!」とジェームズを責めた。王政復古から4ヶ月後に、2人は秘密裡に結婚式を挙げた。1660年10月、アンは長男ケンブリッジ公チャールズを出産。この長男は1歳で天然痘により夭折した。

1670年、アンはカトリックに改宗した。幼年期にプロテスタントとして育てられたジェームズが後にカトリック教徒となった原因の一つは、アンの改宗にあったと言われる。

1671年2月、第8子のキャサリンを出産(同年12月に夭折)。それからわずか数週間で死去。原因は乳癌であったといわれる。

子女

  1. チャールズ(1660年 - 1661年) - ケンブリッジ公
  2. メアリー2世(1662年 - 1694年) - イングランド・スコットランド・アイルランド女王、オランダ総督ウィリアム3世と結婚
  3. ジェームズ(1663年 - 1667年) - ケンブリッジ公
  4. アン(1665年 - 1714年) - イングランド・スコットランド・アイルランド女王、グレートブリテン王国女王、デンマークノルウェー王子ジョージと結婚
  5. チャールズ(1666年 - 1667年) - ケンダル公
  6. エドガー(1667年 - 1671年) - ケンブリッジ公
  7. ヘンリエッタ(1669年)
  8. キャサリン(1671年)

王位継承の家系図

参考文献





固有名詞の分類


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