生い立ち、オラニエ公ウィレムとの結婚とオランダ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 09:31 UTC 版)
「メアリー2世 (イングランド女王)」の記事における「生い立ち、オラニエ公ウィレムとの結婚とオランダ時代」の解説
1662年、イングランド王チャールズ2世の弟で当時ヨーク公であったジェームズ(後のジェームズ2世)と、その最初の妻でクラレンドン伯爵エドワード・ハイドの娘アン・ハイドの長女としてロンドンで生まれた。同母妹にアン、異母妹にルイーザ・マリア・テレーザ、異母弟にジェームズ・フィッツジェームズ、ジェームズ・フランシス・エドワードがいる。 カトリックの父に対して母がプロテスタントであったため、伯父チャールズ2世の命により妹のアンと共に後のロンドン主教ヘンリー・コンプトンのもとでプロテスタントとして育てられる。1670年に母もカトリックへ改宗したが、メアリーとアンはプロテスタントのままであった。これは、カトリックを嫌うイングランド国民の感情を刺激しないための伯父の配慮であり、父は妥協のため教育方針を承諾した。1671年に母が死去すると、父は1673年にカトリック教徒であるモデナ公女マリア(メアリー)と結婚した。 1677年11月4日、伯父の勧めで、代々オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の総督を世襲するオラニエ=ナッサウ家のオラニエ公ウィレム3世(後のウィリアム3世)とロンドンで結婚する。ウィレムの母メアリー・ヘンリエッタはチャールズ2世の妹、ヨーク公ジェームズの姉であった。しかし、従兄妹同士の結婚であったとは言え、チャールズ2世はかつてオランダと盟約を結びながら、フランス王ルイ14世に翻意されてドーヴァーの密約を結んで第三次英蘭戦争を引き起こすなど、両国間の相互不信の中での政略結婚であり、この結婚は決して両国関係の安定化に繋がるものとは言い難かった。 結婚してオランダのハーグへ移住してからはオランダに馴染むようになり、オランダ侵略戦争でフランス軍と戦うウィレムの留守を任された。ウィレムが喘息持ちで猫背、メアリーより背が低く両性愛者でもあったことから当初夫婦仲は悪く、エリザベス・ヴィリアーズとアーノルド・ヴァン・ケッペルという夫の愛人たちの存在に苦しめられたが、やがて関係を修復していった。また、オランダに亡命していた従兄のモンマス公ジェイムズ・スコットを夫と共に歓待している。
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