生い立ち - プロデビューまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 00:12 UTC 版)
「ロジャー・ダルトリー」の記事における「生い立ち - プロデビューまで」の解説
西ロンドン、イースト・アクトンのハマースミス病院に生まれる。奇しくもこの7ヵ月後には同じ病院で後にバンドメイトとなるジョン・エントウィッスルも生まれている。戦時中は母・アイリーンと共にスコットランドに疎開し、終戦後復員した父・ハリーと共にシェパーズ・ブッシュに移った。その後妹のジリアンとキャロルが生まれている。少年時代は成績優秀で前途有望と見られていたが、元々ルールを守って教師に従うという考えは自称「学校反逆者」であった彼の頭になく、大人たちの手に負えないテディ・ボーイであった。1959年にロックンロールの洗礼を受けるとたちまち夢中になり、労働者階級の家庭でギターを買う金もなかったダルトリーは、父の工具を使ってアコースティック・ギターを自作する。そして地元の仲間たちと最初のバンド、サルグレイヴ・レヴェルズを結成。地元のコンテストで優勝したりもした。15歳の時、トイレで喫煙していたことが表向きの理由で通っていたアクトン公立中学校を退学となる。 1961年夏、板金工として働きながら自身のバンド、ザ・ディトゥアーズでプロ・デビューを夢見ていたダルトリーは、中学時代の後輩でベースを抱えて歩いていたジョン・エントウィッスルを街で見かけ、ディトゥアーズに勧誘する。当時、エントウィッスルはスコーピオンズというバンドにいたが、今のバンドを抜けても失うものはないと判断し、ダルトリーと活動を共にすることを決めた。1962年、前任のリズムギタリストに代わり、エントウィッスルのバンドメイトだったピート・タウンゼントが加入する。タウンゼントの加入はエントウィッスルの要請によるものだったが、それ以前にダルトリーが先に目を付けており、ディトゥアーズへの加入を持ちかけていた。当初はダルトリーがリードギタリストであったが、日中の仕事でしばしば手を負傷していたこともあり、1963年には自身の所有していたエピフォンのエレキギターをタウンゼントに売り、ボーカルの方に専念するようになる。 当時のディトゥアーズはダルトリーが絶対的なリーダーであり、彼の音域でカバーできない曲を演奏レパートリーから外すなど、バンドを意のままにした。そのようなダルトリーに対しタウンゼントも意見をすることがあり、この頃から2人の間に、プロ・デビュー以降も続くことになる緊張感が芽生え始める。ただし、ダルトリーはただ威張りくさるだけではなく移動の車の運転や楽器の準備、エージェントとの交渉など、ローディーの仕事を一手に引き受けていた。本人も「ピートに任せてたら、あいつは一日中ベッドに転がってマリファナにふけって、ライブなんかまともに出来やしなかったはずさ。誰かが奴らの面倒を見る必要があり、俺がその役目を果たしてたんだ」と語っている。 1964年2月、バンド名をタウンゼントのクラスメートであるリチャード・バーンズが提案したザ・フーに変更。4月に前任のドラマーに代わりキース・ムーンが加入。バンドは同年7月にメジャー・デビューを果たす。
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