生い立ち - インディー団体でのキャリアとは? わかりやすく解説

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生い立ち - インディー団体でのキャリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 16:32 UTC 版)

ケニー・オメガ」の記事における「生い立ち - インディー団体でのキャリア」の解説

オメガの父は地元でも有名なアイスホッケー選手であったが、膝の怪我プロ入り断念した。それでも、オメガ10歳になると息子にホッケーの手ほどきを始めたという。オメガポジションゴールキーパーであり、もともとチームプレーよりシングル志向であったオメガには向いていたポジションであったプロレスとの出会い3、4歳の頃であり、元々父がプロレスファンで、テレビで中継毎週欠かさず見ていた。オメガは父の膝元WWFの「サタデーナイトメインイベント」に夢中になったが、オンエア時間帯幼児寝ている時間帯であったためビデオ録画して翌朝見たプロレス大好きになった頃から、オメガ路上積もったマット見立てて受け身を行うなどプロレスごっこに熱中したごっこ遊びではなく練習のつもりであった)。こうした遊びができるので夏より冬の方が好きであったプロレステレビで見るだけでなく、ウィニペグ大会があれば親に連れて行ってもらったりもした、周囲の子供たちがハルク・ホーガンファンであり、自身としてもホーガン気に入っていたが自身の一番のお気に入りアルティメット・ウォリアーであった11歳の頃のある日、”バックヤードレスリング”のアイデアが突然ひらめき、その規模プロレスごっこの範疇超えて徐々に大きくなり、興行形態模したショー形式になっていった。TCW(タイソン・チャンピオンシップ・レスリング)というプロモーション名を関したこの”バックヤードレスリング”はオメガ14歳から16歳ぐらいの頃までが活動ピークであった本人いわく「バックヤードレスリングのアイデアは、プロレスジャッキー・チェン融合なんだ」とのことであり、オメガジャッキー・チェンにも憧れていた。 ウィニペグ近郊のトランスコナの出身である縁から2000年2月ウィニペグローカル団体 Top Rope Championship Wrestlingプロレスデビュー。ただこの試合はすぐに退場になってしまったため、オメガ本人はこの試合デビュー戦とは捉えていなかった。シングルプロリング上がったのは同年6月であった。この試合食料品店アルバイトしていたときに友人が店に駆け込み病気欠場者が出て選手足りない今日試合出てくれないか?」と頼んだため、バイト仮病早退して出場。店から猛ダッシュウィニペグ市内の会場駆け込み、ライアン・プライスとのシングルマッチ挑み、これに勝利無名新人がいきなりやってきて勝ってしまったのでバックステージでの反応は冷たいものであった当初サーフィン初心者にもかかわらずハワイサーファー」というギミックだった が、後に「ストリートファイター」の波動拳などを得意技として使用するゲーム・アニメ好きのギーク(おたく)」というギミック変更した。 しかし、アイスホッケーの方で忙しくなり、大学進学の話も進んでいたため、プロレス活動一時中断してしまう。バックヤードレスリングは18歳時に終了している。その頃オメガには大学進学プロレス、そして映画俳優当時オメガ商業映画ではないが短編映画出演しており、次回作のオファー受けていた)という3つの進路があったが、最終的にプロレス選んだクリス・ジェリコライノランス・ストームらが参戦するレスリングツアーがあり、オメガはそちらへの出場決めたのであるその後ROHJAPWPWGなどのアメリカのインディー団体活躍しWWE傘下DSW参戦していたこともあるが、「レスラーとしての環境としては最高だが、ロボット作り替えられようだった」として自ら退団している。 2002年3月にはPCWに初参戦し、メンタロとの一戦でいきなり同団体のマッチ・オブ・ジ・イヤー(年間ベストバウト)を受賞した。ここで出会ったメンタロ指導で、オメガ様々なレスリング吸収するようになっていく。日本プロレス、特にインディー事情精通していったのもこの頃である。その過程日本への憧れ大きくなり、いつしか日本行きオメガ目標になっていた。オメガ日本行きチャンスを得るためにアメリカWLW開催するレスリングキャンプに参加したが、結果としてWWEの目に留まった。 WWE退団後、ジョン・ローリナイティスからは全日本プロレス行き勧められたが進展はなく、オメガアメリカ去った2006年9月カナダのPCWに戻って試合行った日本行き諦めたわけではなくオメガそれ以前からいくつかの団体コンタクト取り試合収録したDVD送っていたが、具体的な誘いはないまま時間ばかりが過ぎて行った引退考えていたが、PCWのリングAJスタイルズがやってきて、スタイルズとのシングルマッチ行ったケニー改めプロレス楽しさ知ったレスラー活動継続決めたオメガは、アメリカからやってくるインディー大物相手にするようになり、ピーティ・ウィリアムスやサモア・ジョーとも対戦。そして2008年3月にはアメリカ渡りロウキー勝ってJAPWタイトル獲得したYouTubeなどの動画投稿サイトにエニウェア・マッチの動画公開され一部日本のレスリングファンなどから話題になるオメガ本人猛烈な高木三四郎への売込み によりDDTオメガ日本招聘し、2008年7月初来日した。 2009年1月より飯伏幸太と「ゴールデンラヴァーズ」を結成し、第28CMLL認定KO-Dタッグ王座獲得するなどの結果残している。 2010年1月31日には新日本プロレス初参戦。新日本主催の『BEST OF THE SUPER Jr.XVII 〜STRIKE GOLD〜』に出場して金本浩二田口隆祐などから勝利しブロック3位の成績残した8月30日にはSMASH.7にも参戦オメガカナダ時代師匠であるMentallo対戦し勝利を収めた10月11日新日本プロレス両国大会で飯伏との「ゴールデンラヴァーズ」でIWGPジュニアタッグ王座挑戦しプリンス・デヴィット&田口隆祐Apollo55下して戴冠したその後2度Apollo55邪道&外道)も防衛した2011年6月19日中澤マイケルとのタッグでKO-Dタッグ奪取する6月24日ワンマッチ興業HARASHIMAHERO!組に敗れた7月29日DDT新木場1stRing大会で全日本プロレスへの参戦希望表明、これを受けて全日本ジュニアヘビー級リーグ戦への参戦決定した9月11日全日本ジュニアヘビー級リーグ戦開幕戦世界ジュニアヘビー級王者KAIから勝利する10月23日全日本両国大会でKAI破り世界ジュニアヘビー級王座奪取した(第31代王者)。 2012年8月18日DDT初の日本武道館大会メインイベントで飯伏が保持するKO-D無差別級王座挑戦する敗れた。飯伏とはこれが4年ぶり2度目シングルであった12月23日後楽園ホール大会でエル・ジェネリコ破りKO-D無差別級王座を初戴冠HARASHIMA中澤マイケル相手防衛する翌年2013年3月20日入江茂弘敗れ防衛失敗した2014年10月3日オメガDDTとの契約10月いっぱい終了し新日本プロレス移籍することが発表された。 10月26日オメガDDTラストマッチで飯伏とタッグ組み男色ディーノ&竹下幸之介対戦PKこころΩで勝利を収めようとするが中澤マイケル試合を終わらせたくないと乱入するが飯伏のハイキック排除されてしまう。さらに試合にはケニーが寮を出て行ってしまうことを悔やむ遠藤哲哉ヨシヒコ似たオメガコスチュームまとったケニヒコが登場する遠藤は飯伏の正拳突き食らいこれも排除される試合ゴールデンシャワーディーノから勝利しラストマッチを勝利飾った

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