リチャード・バーンズとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 工学 > 大車林 > リチャード・バーンズの意味・解説 

リチャード・バーンズ

英語 Richard Burns

1971年1月17日、イングランド・レディング生まれ88年ラリー始め93年にはスバル抜擢されイギリス選手権参戦しチャンピオン獲得94年95年スバルからアジパシとWRC出場96年三菱移籍し98年サファリWRC初優勝99年から再びスバルにもどり、ナンバーワンドライバーとなる。2001年には念願ドライバーズチャンピオン獲得02年からはプジョー移った

リチャード・バーンズ

※「大車林」の内容は、発行日である2004年時点の情報となっております。

リチャード・バーンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/26 04:56 UTC 版)

リチャード・バーンズ
基本情報
国籍 イギリス
イングランド
生年月日 (1971-01-17) 1971年1月17日
出身地 イギリス バークシャー州レディング
死没日 (2005-11-25) 2005年11月25日(34歳没)
WRCでの経歴
活動時期 1990年 - 2003年
所属チーム スバル三菱プジョー
出走回数 104
チャンピオン回数 1(2001年
優勝回数 10
表彰台回数 34
ステージ勝利数 277
通算獲得ポイント 351
初戦 1990 RACラリー
初勝利 1998 サファリラリー
最終勝利 2001 ラリー・ニュージーランド
最終戦 2003 ラリー・カタルーニャ
テンプレートを表示
リチャード・バーンズ

リチャード・アレクサンダー・バーンズRichard Alexander Burns, 1971年1月17日 - 2005年11月25日)は、イギリスラリードライバー。2001年世界ラリー選手権 (WRC) ドライバーズチャンピオン。

経歴

バーンズはレディングのロイヤル・バークシャー病院で生まれた。8歳になると家の近くの野原で、父親の古いトライアンフ2000を運転し始めた[1]。11歳で17歳以下の自動車クラブに加わり、1984年にドライバーとなった。

1986年に彼の父親はニュータウン英語版の近くにあるジャン・チャーチルズ・ウェルシュ・フォレスト・ラリースクールに彼を入校させた。彼はそこでフォード・エスコートを運転した。その後、故郷レディングのクラヴェン・モータークラブに加入し、デヴィッド・ウィリアムズの支援を受けイギリスラリー選手権英語版に参戦する。

1990年、ウィリアムズからプジョー・205GTIを与えられ、プジョー・チャレンジに参戦[1]。シリーズチャンピオンとなり[1]RACラリー世界ラリー選手権 (WRC) デビューを果たした[2]。翌年はイギリス・プジョーのワークスドライバーに抜擢され、1992年まで同チームに在籍する。

1993年からはスバルワールドラリーチームに移籍、同僚のアリスター・マクレーとイギリスラリー選手権を争い、最も若いチャンピオンとなった。

1994、1995年はWRCやアジア・パシフィックラリー選手権 (APRC) に出場するがなかなか思うような結果が出ないシーズンが続く。

1996年からは三菱に移籍[1][2]。その年のAPRCのニュージーランドラリーで優勝するなど実力を見せ始め、1998年サファリラリーでWRCでも初優勝。[1][2]さらにその年の最終戦グレートブリテンラリーでも優勝し[1]、三菱にこの年のドライバーズ[注釈 1]、マニュファクチャラーズのダブルタイトルをもたらした。

1999年からはスバルに復帰[1][2]。序盤はマシンの熟成不足とピレリタイヤの開発不足で出遅れたが、中盤からはマシンとタイヤの開発が進むと持ち前の速さを発揮しアクロポリスオーストラリア、グレートブリテンで勝利し、ドライバーズタイトルを2位で終える。

2000年はクリスチャン・ロリオーが開発したインプレッサWRC2000でラリーを戦うも革新的な設計が仇となり、あと一歩のところで、マーカス・グロンホルムにドライバーズタイトルをさらわれてしまった。

2001年ラリー・フィンランド
2002年ラリー・ドイチュラント

2001年は、ニューマシン、インプレッサWRC2001のマイナートラブルに悩まされるも着実にポイントを重ね、ニュージーランドでの1勝のみであったが念願の世界チャンピオンを獲得[1]イングランド出身では初の世界チャンピオンとなった[注釈 2]

2001年シーズン後にバーンズは移籍を表明したが、スバルとの契約の中に「タイトルを獲得した場合、その翌年もチームに残留する」という契約文が明記されていたため、スバルとの間で問題が発生する。結局、プジョーとスバルの紳士協定で沈静化し、無事にプジョーへ移籍。安定した走りをみせ、ポイントを重ねるも勝利を飾ることは出来ず、次第にもうひとりのエース、グロンホルム中心で運営されているチームに不満を覚える。

2003年も安定した走りでポイントを重ね、チャンピオンの可能性を残して11月の最終戦ラリーGBを迎えようとした[1]。しかし、開催地カーディフへの移動のため愛車のポルシェ・996GT3を走らせていたところ、高速道路上で突然失神。同乗していたマルコ・マルティンのとっさの判断で事なきを得た[3]が、精密検査の結果脳腫瘍が発見され、急遽レースを欠場する。発見された脳腫瘍は当初治療できる程度のものと言われていたが、悪性脳腫瘍のひとつで極めて治療の難しい「星状細胞腫」であることが判明した[3]。同年のシーズンの中にはベルギーのラリー記者ミシェル・リザンに「最近、走っていると記憶が無くなるときがある」と洩らしており、リザンはその言葉に一抹の不安を感じたが、予感は的中することとなった。この時の代役はヒュンダイの途中撤退でシートを失ったフレディ・ロイクスが務めている。

2004年シーズンからスバルへ再度復帰する予定だったものの[1][2]、治療に入ったことでミッコ・ヒルボネンにシートを譲る形となる。復帰を諦めず最後まで病と戦い続け、2005年8月にはイングランドのキャッスルクームで行われたバーンズを応援するイベントに車椅子で参加するなど回復の兆しを見せ[1]、観客からの歓声に思わず涙を滲ませるシーンもあった。しかし、これが公に見せた最後の姿となり[1]、11月25日に脳腫瘍のため死去[1][2]。34歳没。最後の数日間は昏睡状態に陥り、静かに息を引き取った。彼を看取ったのは家族と限られた友人、そしてパートナーのゾーイであった。また、命日の11月25日は2001年にチャンピオンを獲得した日でもあった[3]

生涯におけるWRC通算成績は10勝。それまでWRCのチャンピオンドライバーはFIA Cup時代を含めて全員が存命だった。

エピソード

  • 言動や振る舞いから個人主義者、傲慢と語られることが多かったが、インタビューが苦手だったことと、プライドの高さから自分の本心を打ち明けるのが苦手だったのが原因である。一方で長年の相棒であったコドライバーのロバート・レイドをはじめ、コリン・マクレーマルコ・マルティンなど友人も多かった。
  • 同国出身で経歴が似ており、なおかつ実績も多いコリン・マクレーと比較されることがたびたびあり、またマクレーもリチャードをからかいの対象にしてみせた。その度にリチャードは反発してみせたが、コリンとはいい意味でのライバルであり友人でもあった為、決して険悪な仲ではなかった[1]
  • 優勝回数こそ少なかったが、リタイアも少なく全盛期には表彰台のどこかしらに立っていた。そのため2001年シーズンはたった1勝で世界王者を獲得し、「1勝もしないで世界王者」という前代未聞の記録が常に狙えるほどドライバーズポイント順位の上位に名前を連ねていた。
  • 戦闘機が大のお気に入りで、英国空軍の、トーネードF.Mk.3防空戦闘機に試乗したこともあった。
  • ラリーの前にテンションを上げるために、エミネムの曲をよく聴いていた。
  • バーンズの死はBBC Twoの自動車バラエティ番組『トップ・ギア』の12月4日放送分(シリーズ7・エピソード4)でも取り上げられ、回想の映像が流された。
  • イギリス・スコットランド出身のロックバンド、トラヴィス2007年のアルバムThe Boy With No Nameをリチャードに捧げた
  • 車載映像を使ってコドライバーとの連携を始めた先駆けと言われている[4]
  • イギリス国内にこれまでのラリーカーと愛車が保管されている。

リチャード・バーンズ・ラリー

『リチャード・バーンズ・ラリー』(RBR)はバーンズが監修を務めたラリーゲームで、イギリスのソフトウェアメーカーSCiの手によって開発された。PlayStation 2XboxWindowsPC用が発売され、日本ではPlayStation 2用が日本語版として発売された。バーンズの名前を冠した最初で最後のゲームである。

林道など実際の道を最先端の画像能力で表現し、天候の変化などによる路面の変化も忠実に再現、音楽はポール・オークンフィールドをはじめとするテクノDJが担当した。RBRでは他のゲームでは簡略化されることの多かったクラッチペダル操作を導入し、車両の状態などで変化する細かい挙動、あらゆる部品にミリ単位の調整ができるセッティング、衝突時のダメージなど、ありとあらゆる点で実際のラリーカーを再現することでリアリズムを極限まで追求した。

タイトル

タイトル
1992 UK National[5] スバル・レガシィRS
1993 British Rally Championship[6] スバル・レガシィRS
2001 世界ラリー選手権[7] スバル・インプレッサWRC

戦績

WRC[2]
エントラント 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 WDC ポイント
1990年 プジョー・タルボ・スポール プジョー・309 GTI MON POR KEN FRA GRE NZL ARG FIN AUS ITA IVO GBR
28
0
1991年 プジョー・309 GTI MON SWE POR KEN FRA GRE NZL ARG FIN AUS ITA IVO ESP GBR
16
0
1992年 プジョー・309 GTI MON SWE POR KEN FRA GRE NZL ARG FIN AUS ITA IVO ESP GBR
Ret
0
1993年 555 スバル・ワールドラリーチーム スバル・レガシィ RS MON SWE POR KEN FRA GRE ARG NZL FIN AUS ITA ESP GBR
7
43位 4
1994年 SMSG / N. Koseki スバル・インプレッサ WRX MON POR KEN
5
FRA GRE ARG 20位 8
555 スバル・ワールドラリーチーム スバル・インプレッサ 555 NZL
Ret
FIN ITA GBR
Ret
1995年 555 スバル・ワールドラリーチーム スバル・インプレッサ 555 MON SWE POR
7
FRA NZL
Ret
AUS ESP GBR
3
9位 16
1996年 三菱・ラリーアート 三菱・ランサーエボリューション III SWE KEN INA
Ret
GRE ARG
4
FIN AUS
5
ITA ESP
Ret
9位 18
1997年 三菱・カリスマGT Evo IV MON SWE KEN
2
POR
Ret
ESP FRA ARG
Ret
GRE
4
NZL
4
FIN INA
4
ITA AUS
4
GBR
4
7位 21
1998年 カリスマGT Evo IV MON
5
SWE
15
KEN
1
POR
4
6位 33
三菱・カリスマGT Evo V ESP
4
FRA
Ret
ARG
4
GRE
Ret
NZL
9
FIN
5
ITA
7
AUS
Ret
GBR
1
1999年 スバル・ワールドラリーチーム スバル・インプレッサ WRC 99 MON
8
SWE
5
KEN
Ret
POR
4
ESP
5
FRA
7
ARG
2
GRE
1
NZL
Ret
FIN
2
CHN
2
ITA
Ret
AUS
1
GBR
1
2nd 55
2000年 スバル・インプレッサ WRC 99 MON
Ret
SWE
5
KEN
1
2位 60
スバル・インプレッサ WRC 2000 POR
1
ESP
2
ARG
1
GRE
Ret
NZL
Ret
FIN
Ret
CYP
4
FRA
4
ITA
Ret
AUS
2
GBR
1
2001年 スバル・インプレッサ WRC 2001 MON
Ret
SWE
16
POR
4
ESP
7
ARG
2
CYP
2
GRE
Ret
KEN
Ret
FIN
2
NZL
1
ITA
Ret
FRA
4
AUS
2
GBR
3
1位 44
2002年 プジョー・トタル プジョー・206 WRC MON
8
SWE
4
FRA
3
ESP
2
CYP
2
ARG
DSQ
GRE
Ret
KEN
Ret
FIN
2
GER
2
ITA
4
NZL
Ret
AUS
Ret
GBR
Ret
5位 34
2003年 マールボロ・プジョー・トタル プジョー・206 WRC MON
5
SWE
3
TUR
2
NZL
2
ARG
3
GRE
4
CYP
Ret
GER
3
FIN
3
AUS
3
ITA
7
FRA
8
ESP
Ret
GBR 4位 58

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n Anthony Peacock(著)、Chie Uemura(翻訳)(編)「さようなら、リチャード・バーンズ」『WRC Plus』第17巻第06号、ニューズ出版、2006年2月、52-53頁。 
  2. ^ a b c d e f g 「追悼 リチャードバーンズ」『Racing on』第21巻第2号、ニューズ出版、2006年。 
  3. ^ a b c 「01年ワールドチャンピオン リチャード・バーンズ死去」『WRC Plus』第17巻第06号、ニューズ出版、2006年2月、96頁。 
  4. ^ ラリーカーズ vol.26 [要ページ番号]
  5. ^ UK National 1992”. eWRC-results.com. 2019年9月7日閲覧。
  6. ^ Great Britain 1993”. eWRC-results.com. 2019年9月7日閲覧。
  7. ^ WRC 2001”. eWRC-results.com. 2019年9月7日閲覧。

外部リンク


リチャード・バーンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 07:43 UTC 版)

新・御宿かわせみ」の記事における「リチャード・バーンズ」の解説

築地居留地評判の、52歳になるイギリス人医師。御維新前来日し在日イギリス領事館に勤務していた弟のフィリップ・バーンズ同様、麻生宗太郎家族ぐるみ親し付き合いをしてきた。日本語堪能日本人の妻を迎えるほどの親日家で、麻太郎イギリス留学兄弟尽力し帰国後は麻太郎の師となる。築地居留地にある住居診療所洋館表玄関鏝絵があり、居留地人々から「の館」と呼ばれ親しまれている。

※この「リチャード・バーンズ」の解説は、「新・御宿かわせみ」の解説の一部です。
「リチャード・バーンズ」を含む「新・御宿かわせみ」の記事については、「新・御宿かわせみ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「リチャード・バーンズ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「リチャード・バーンズ」の関連用語

リチャード・バーンズのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



リチャード・バーンズのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
三栄書房三栄書房
Copyright c San-eishobo Publishing Co.,Ltd.All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのリチャード・バーンズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの新・御宿かわせみ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS