出羽建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
威奈大村の後任として阿倍真公が出羽守に任ぜられると、和銅元年9月28日(708年11月14日)、越後国の庄内地方に出羽郡が新設された。このことが現地の蝦夷系住人に困惑や抵抗の感情をもたらしたようで、中央政府は和銅2年3月6日(709年4月20日)に陸奥国と越後国の蝦夷が出羽柵の柵戸ら非蝦夷系の住人に危害を加える事件がたびたび発生していたことを理由に、陸奥鎮東将軍・巨勢麻呂や征越後蝦夷将軍・佐伯石湯などを派遣した。両最高指揮官の肩書きが陸奥国側では「陸奥鎮東将軍」、越後国側では「征越後蝦夷将軍」と書き分けられ、越後国側には副将軍がともなっていることから、日本海側の蝦夷が蜂起していたことがうかがえる。 これより以後、蝦夷社会と律令国家の衝突は史料上に「蝦夷反乱」という形で国家側の記録が残るようになる。 庄内平野の蝦夷反乱から3年後の和銅5年9月23日(712年10月27日)、出羽郡を中心に新たに出羽国が建てられた。10月10日(712年7月13日)には陸奥国から最上郡と置賜郡を割いて出羽国に併せることになる。
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