巨勢麻呂とは? わかりやすく解説

巨勢麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/15 03:51 UTC 版)

 
巨勢 麻呂
巨勢麻呂『前賢故実』より
時代 飛鳥時代後期 - 奈良時代前期
生誕 不明
死没 霊亀3年1月18日717年2月7日
官位 従三位中納言
主君 文武天皇元明天皇元正天皇
氏族 巨勢朝臣
父母 父:巨勢紫檀
兄弟 麻呂多益須
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巨勢 麻呂(こせ の まろ)は、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての公卿小徳・巨勢大海の孫で、京職大夫巨勢紫檀の子。官位従三位中納言

経歴

持統天皇7年(693年直広肆に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令施行に伴う位階制度の制定を通じて従四位下に叙せられ、慶雲2年(705年民部卿に任じられる。

元明朝に入ると、和銅元年(708年)3月に左大弁に任じられ、同年7月には二品穂積親王左大臣石上麻呂らと共に天皇に召されて、百寮に率先して官事に努めていることを賞され、麻呂は正四位下に昇叙された[1]。和銅2年(709年陸奥越後両国の蝦夷征討のため、麻呂が陸奥鎮東将軍に、佐伯石湯征越後蝦夷将軍に任ぜられる[2]。その後、和銅4年(711年)正四位上、和銅6年(713年従三位霊亀元年(715年中納言と元明朝で順調に昇進を果たした。

元正朝霊亀2年(716年出羽国において官人や人民が少なく狄徒(出羽国の蝦夷)も未だ十分に従っていない一方で、土地が肥沃で田野が広大であることから、近国の人民を出羽に移住させて凶暴な狄徒を教え諭すと共に、土地の利益を確保すべき旨を建言する。これに基づき朝廷では、陸奥国の置賜最上の2郡と、信濃上野越前・越後の4国の百姓それぞれ100戸を出羽国に移した[3]

霊亀3年(717年)1月18日薨去。最終官位は中納言従三位。

官歴

六国史』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』和銅元年7月15日条
  2. ^ 『続日本紀』和銅2年3月5日条
  3. ^ 『続日本紀』霊亀2年9月23日条

参考文献





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