出羽国の清水氏
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出羽清水氏は清和源氏足利氏の一門・斯波氏の一族最上氏の分家筋にあたる。1474年、斯波兼頼の曾孫の成沢満久が最上地方へ進出し、その後に大蔵村に清水城を築いて居城とし、それ以降清水を名乗った。 清水氏の5代当主・清水義高が、本合海の戦いで武藤義増の軍勢と戦って討死し、その跡は清水義氏が継いだ。義氏には男子がなかったため、一族でもあり、本家筋の最上義光の息子を養子として迎えた。これが清水氏7代当主・清水義親である。清水義親は清水氏の養子となる以前に、豊臣家に近習として仕えていたことがあり、その縁で豊臣秀頼とも交流があった。これが後年の悲劇の一因となる。 1613年、徳川家康と豊臣秀頼との手切れが決定的になると、最上家は徳川家康ら東軍諸将から、清水義親と豊臣家との内通を疑われてしまう。最上義光の死後、その家督を継いだ実兄の最上家親は、疑いを晴らすために弟である清水義親の追討を決断し、翌1614年に清水城を攻撃して落城させた。清水義親は、13歳であった嫡子の清水義継ともども切腹させられ、ここに清水家は滅亡した。
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