中條塾
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中條塾は坂出地方に於ける最も異彩ある文武の道場であった。塾生は讃岐全土に及び、武術修行者は全国各地から漫遊して来て奥伝を受けて帰国したので盛名は天下に周知されていた。 1824年頃(文政7年)に自宅に中条塾を新設し、昼間は武士に夜間は一日おきに百姓や町人に文武の道を教えた。 中條塾では武術は無相流新柔術、直心影流剣術、村上流鉄鎖、学問では天文、易学、暦学、測量などを教えていた。二代目塾頭の中條秀次郎の代では漢学も教授していた。 1846年(弘化3年)病気により47歳で中條勝次郎が亡くなったため、次男の中條秀次郎が後を継いで第二代塾頭となった。中條勝次郎長男の中條繁太郎は少年時代から文武両道に秀で、特に柔術では天才的達人であったが19歳で病死した。次男の中條秀次郎も父兄に劣らない名人であり、特に人材育成と社会公共に従事したため厚く郷党に信頼されていた。 門弟で遠隔の地から来て学ぶ者は内弟子として寄宿させていた。
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中條塾
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中條塾は坂出地方に於ける最も異彩ある文武の道場であった。塾生は讃岐全土に及び、武術修行者は全国各地から漫遊して来て奥伝を受けて帰国したので盛名は天下に周知されていた。遠隔の地から来て学ぶ者は内弟子として寄宿させていた。 中條勝次郎は1824年頃(文政7年)に自宅に中条塾を新設し、昼間は武士に夜間は一日おきに百姓や町人に文武の道を教えた。 中條塾では武術は無相流新柔術、直心影流剣術、村上流鉄鎖、学問では天文、易学、暦学、測量などを教えていた。二代目塾頭の中條秀次郎の代では漢学も教授していた。 1846年(弘化3年)病気により47歳で中條勝次郎が亡くなったため、次男の中條秀次郎が後を継いで第二代塾頭となった。中條勝次郎長男の中條繁太郎は少年時代から文武両道に秀で、特に柔術では天才的達人であったが19歳で病死した。次男の中條秀次郎も父兄に劣らない名人であり、特に人材育成と社会公共に従事したため厚く郷党に信頼されていた。
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