出自及び真木(槇)氏の概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/23 14:12 UTC 版)
「真木氏 (牧野家重臣)」の記事における「出自及び真木(槇)氏の概略」の解説
江戸時代に長岡藩先法家・信濃小諸藩の重臣となった真木(槇)氏の先祖は、三河国宝飯郡(豊川市)の土豪(あるいは正五位下加知天神の神官神職・鍛冶職能集団など)であったとされる。 その足跡の初見は、南朝正平5年・北朝観応元年(1350年)のことであり、河内国(現、大阪府南部)から、金山神を奉じて三河国宝飯郡(現、愛知県豊川市周辺)に渡来してきた(槇家系記・中條神社社記)。 真木・槇・牧野は、発音が似ているため牧野氏と同族異流・近縁ではないかと俗に、指摘されているが、文献上の根拠はなく、槇(真木)氏は、かなり古くから宝飯郡に存在するので、この推論は、慎重に検討する必要がある。 真木氏は、橘姓を称する一方で、太平記などに記述が見える南朝(後村上天皇)の忠臣、真木定観の末裔を称するものもあり、牧野氏近縁説と、真っ向から対立しているが、この説は一次史料が現存していなため断定はできない。 また宝飯郡瀬木村は、その昔は真木村といったとする古記録(三河国八名郡誌など)がある。真木村がなぜ瀬木に改称されたか、また在地の土豪(あるいは正五位下加知天神の神官神職・鍛冶職能集団など)であった真木氏と、真木村との関係については、未解明である。
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