譜代・親藩大名家の交代
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正保元年(1644年)3月、遠江国掛川藩より「家康に過ぎたるもの」として有名な本多忠勝の孫に当たる本多忠義が10万石で入り、村上藩が再び立藩した。ところが忠義はわずか5年後の慶安2年(1649年)6月、陸奥国白河藩に移封された。 代わって結城秀康の孫に当たる松平直矩が、播磨国姫路藩より15万石で入る。直矩は城郭の大改築や城下町の拡張工事を行なうなどし、村上藩の最盛期を現出した。しかし、その費用の捻出のためか、領内の検地を過酷に実施、百姓の逃散などが続出している。しかし直矩も18年後の寛文7年(1667年)6月に旧領・姫路に戻された。 入れ替わりで姫路より榊原政倫が入る。同年10月、天守三層櫓が落雷のために焼失し、以後は天守が造営されることは無かった。政倫は天和3年(1683年)2月27日に死去し、代わって養嗣子の榊原政邦が跡を継いだ。宝永元年(1704年)5月28日、政邦は姫路に移封され、入れ替わりで姫路より本多忠孝(忠義の兄の子孫)が15万石で入った。ところが忠孝は一度も村上城に入ることなく、宝永6年(1709年)9月13日に早世した。忠孝には嗣子が無く、本来なら本多家は断絶となるところであったが、本多家は忠勝以来の名族であるということから、幕府の計らいにより一族の本多忠良が跡を継ぐことで家名存続が認められた。ただし、所領は15万石のうち5万石のみとされた。このため、村上藩では多くの家臣を抱えきれなくなり、侍と足軽合わせて430名ほどを解雇している。忠良は翌宝永7年、三河国刈谷藩に移封となった。代わって上野国高崎藩より松平輝貞が7万2000石で入った。輝貞は第5代将軍・徳川綱吉の下で活躍した人物だったが、代替わりして徳川家宣が将軍になると失脚し、この地に移された。村上越訴事件は、この輝貞の時代に起こっている。しかし将軍が徳川吉宗になると、輝貞は復権を許されて享保2年(1717年)2月、旧領の高崎に移された。 そして、5万石で新たに入ったのは家宣とその子・徳川家継の時代に新井白石と共に権勢を誇った間部詮房である。詮房は吉宗に嫌われて家継の死後、失脚していたが、これもいわゆる左遷とも言える。詮房は享保5年(1720年)7月に55歳で死去し、跡を弟で養嗣子となっていた間部詮言が継いだが、同年9月12日に越前国鯖江藩へ移封された。
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