譜代・親藩大名家の交代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 譜代・親藩大名家の交代の意味・解説 

譜代・親藩大名家の交代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 14:50 UTC 版)

村上藩」の記事における「譜代・親藩大名家の交代」の解説

正保元年1644年3月遠江国掛川藩より「家康過ぎたるもの」として有名な本多忠勝の孫に当たる本多忠義10万石で入り村上藩が再び立藩した。ところが忠義はわずか5年後慶安2年1649年6月陸奥国白河藩移封された。 代わって結城秀康の孫に当たる松平直矩が、播磨国姫路藩より15万石で入る。直矩は城郭大改築城下町拡張工事行なうなどし、村上藩最盛期現出した。しかし、その費用捻出のためか、領内検地過酷実施百姓逃散などが続出している。しかし直矩も18年後の寛文7年1667年6月旧領姫路戻された。 入れ替わり姫路より榊原政倫が入る。同年10月天守三層落雷のために焼失し以後天守造営されることは無かった。政倫は天和3年1683年2月27日死去し、代わって養嗣子榊原政邦が跡を継いだ宝永元年1704年5月28日、政邦は姫路移封され、入れ替わり姫路より本多忠孝忠義の兄の子孫)が15万石入った。ところが忠孝一度村上城に入ることなく宝永6年1709年9月13日早世した。忠孝には嗣子無く、本来なら本多家断絶となるところであったが、本多家は忠勝以来名族であるということから、幕府計らいにより一族本多忠良跡を継ぐことで家名存続認められた。ただし、所領15万石のうち5万石のみとされた。このため村上藩では多く家臣抱えきれなくなり、侍と足軽合わせて430名ほどを解雇している。忠良は翌宝永7年三河国刈谷藩移封となった。代わって上野国高崎藩より松平輝貞が72000石で入った。輝貞は第5代将軍徳川綱吉の下で活躍した人物だったが、代替わりして徳川家宣将軍になると失脚し、この地に移された。村上越訴事件は、この輝貞の時代起こっている。しかし将軍徳川吉宗になると、輝貞は復権許され享保2年1717年2月旧領高崎移された。 そして、5万石で新たに入ったのは家宣その子徳川家継時代新井白石と共に権勢誇った間部詮房である。詮房は吉宗嫌われ家継死後失脚していたが、これもいわゆる左遷とも言える。詮房は享保5年1720年7月55歳死去し、跡を弟で養嗣子となっていた間部詮言継いだが、同年9月12日越前国鯖江藩移封された。

※この「譜代・親藩大名家の交代」の解説は、「村上藩」の解説の一部です。
「譜代・親藩大名家の交代」を含む「村上藩」の記事については、「村上藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「譜代・親藩大名家の交代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「譜代・親藩大名家の交代」の関連用語

1
12% |||||

譜代・親藩大名家の交代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



譜代・親藩大名家の交代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの村上藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS