鷹司信熙とは? わかりやすく解説

鷹司信熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/05 13:00 UTC 版)

鷹司 信熙(たかつかさ のぶひろ、1892年明治25年)1月7日 - 1981年昭和56年)1月15日)は、日本陸軍軍人華族。最終階級は陸軍大佐男爵

経歴

東京都出身。公爵鷹司煕通の二男として生まれる。1905年(明治38年)12月、分家し男爵を叙爵。陸軍中央幼年学校予科同本科を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1915年大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。

1921年(大正10年)7月、近衛野砲兵連隊中隊長に就任。陸士本科教官に転じ、1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)8月、野戦重砲兵第8連隊付となる。以後、近衛野砲兵連隊大隊長、砲工学校教官を歴任。1933年(昭和8年)8月、皇族付武官・北白川宮永久王付に就任。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進級。

1936年(昭和11年)8月、陸軍野戦砲兵学校教官となり、1937年(昭和12年)12月、野戦重砲兵第7連隊長に就任。1939年(昭和14年)3月、砲兵大佐に昇進。ノモンハン事件に出動。事件後、その引責として1939年9月30日に停職・男爵礼遇停止の処分を受けた。同年12月、諭旨予備役編入となった。

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)8月に召集され、名古屋陸軍造兵廠監督官を務めた。

戦後、公職追放となり[1]1951年に追放解除となった[2]

親族

脚注・出典

  1. ^ 公職追放の該当事項は「正規陸軍将校」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、631頁。NDLJP:1276156 
  2. ^ 『毎日新聞』1951年9月26日四面。
  3. ^ a b 『門閥』、243頁。

参考文献

日本の爵位
先代
叙爵
男爵
鷹司家(分家)初代
1905年 - 1947年
次代
華族制度廃止

鷹司 信熙(たかつかさ のぶひろ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 14:20 UTC 版)

東亰異聞」の記事における「鷹司 信熙(たかつかさ のぶひろ)」の解説

鷹司熙通卿の妾・小里の子鷹司家四男。熙通卿は手元に引き取ろうしたもの果たせず、京都倉橋家で育つ。優秀な陰陽師らしいが、少年らしい無邪気な発言が目立つ。通称「熙(ひかる)」。

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