榎本家(旧小川家)住宅主屋
名称: | 榎本家(旧小川家)住宅主屋 |
ふりがな: | えのもとけ(きゅうおがわけ)じゅうたくしゅおく |
登録番号: | 28 - 0124 |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
構造: | 木造平屋建、瓦葺、建築面積154㎡ |
時代区分: | 江戸 |
年代: | 江戸末期 |
代表都道府県: | 兵庫県 |
所在地: | 兵庫県洲本市五色町鮎原上944 |
登録基準: | 造形の規範となっているもの |
備考(調査): | |
施工者: | |
解説文: | 近世より近隣に重きをなし,近代に入って旧鮎原村の村長も務めた旧家の住宅。伝承より明治元年には既に当地にあったことが知られる。入母屋造,本瓦葺で,正側面三方に下屋をかける。内部はやや改造されているが,食違い六間取りを基本とする平面形態である。 |
榎本家(旧小川家)住宅離れ
名称: | 榎本家(旧小川家)住宅離れ |
ふりがな: | えのもとけ(きゅうおがわけ)じゅうたくはなれ |
登録番号: | 28 - 0125 |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
構造: | 土蔵造及び木造平屋一部2階建、瓦葺、建築面積140㎡ |
時代区分: | 江戸 |
年代: | 江戸末期 |
代表都道府県: | 兵庫県 |
所在地: | 兵庫県洲本市五色町鮎原上944 |
登録基準: | 国土の歴史的景観に寄与しているもの |
備考(調査): | |
施工者: | |
解説文: | 主屋の背面側に建つ。置屋根形式の土蔵と居室部が接続されているが,土蔵が先に建ち,後に居室部を増築したと思われる。居室部には9畳,6畳座敷と8畳1室を設け,南側を廊下で繋ぐ。土蔵には2階を設ける。大規模民家の敷地景観を今日に伝える建物である。 |
榎本家(旧小川家)住宅長屋門
名称: | 榎本家(旧小川家)住宅長屋門 |
ふりがな: | えのもとけ(きゅうおがわけ)じゅうたくながやもん |
登録番号: | 28 - 0126 |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
構造: | 木造平屋建、瓦葺、建築面積123㎡ |
時代区分: | 大正 |
年代: | 大正9 |
代表都道府県: | 兵庫県 |
所在地: | 兵庫県洲本市五色町鮎原上944 |
登録基準: | 国土の歴史的景観に寄与しているもの |
備考(調査): | |
施工者: | |
解説文: | 敷地の南辺を画する長屋門。本瓦葺,入母屋造で,門の西側に供部屋,東側に作業場2室を設ける。やや建ちを高く取り,上部小壁の一部を開放とする。旧家の格を示すとともに,近世から近代にかけての淡路島の農村集落景観を今日に伝える建物である。 |
榎本氏
榎本氏(えのもとうじ)は、日本の氏族。
大伴榎本連
榎本氏 | |
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氏姓 | 榎本連 |
種別 | 神別(天神) |
著名な人物 | 大伴榎本大国 |
凡例 / Category:氏 |
大伴連の一族で山城国乙訓郡榎本に発祥したと伝わる[1]。飛鳥時代の天武天皇の時代に大伴榎本大国がいる[1]。後に大伴を略して「榎本連」を称するようになったという[1]。
榎本氏 (下野国)
榎本氏 | |
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本姓 | 藤原北家秀郷流 |
種別 | 武家 |
出身地 | 下野国 |
主な根拠地 | 下野国 |
著名な人物 | 榎本高綱 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
永禄元年(1558年)に小山高朝の二男である榎本高綱によって、祇園城の支城として榎本城が築城されたといわれる。
榎本武揚家(御家人→旗本→子爵家)
榎本氏 | |
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種別 |
武家(御家人→旗本) 華族(子爵) |
主な根拠地 |
相模国[3] 東京府東京市淀橋区[4] |
著名な人物 | 榎本武揚 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
江戸時代末期の幕臣で明治期の政治家・華族である榎本武揚の家。武揚の父武規はもともと「箱田良助」という名前で備後国安那郡箱田村の庄屋の次男であったが、文政5年(1822年)に幕臣(御家人)の榎本武由(武兵衛)の娘と結婚して婿養子となったことで武士の身分を得た[5]。弘化元年(1844年)に幕府勘定方となった際に旗本身分に取り立てられた[5]。
武揚はその次男であるが、慶応3年(1867年)に兄の勇之丞厄介により新たに一家創設して、以後布衣となったので永々御目見とされて独立した旗本となった[3]。家禄は100俵だった[3]。幕府で海軍奉行まで昇進。戊辰戦争では函館五稜郭に籠城して王師に抗したため捕縛されたが、明治5年(1872年)に赦罪されて明治政府に出仕し、海軍中将や各国全権公使を経て海軍卿、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商大臣などの閣僚職を歴任した[4]。
明治20年(1887年)5月24日に武揚は明治国家の発展に尽くしたことが評価されて勲功華族として子爵に叙せられた[6]。その息子の2代子爵武憲は貴族院の子爵議員に当選して務めた[4]。その息子の3代子爵武英の代の昭和前期に榎本子爵家の邸宅は東京市淀橋区十二社にあった[4]。
脚注
注釈
出典
参考文献
太田亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 榎本 エノモト」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、795-796頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典1巻』東洋書林、1997年(平成9年)。ISBN 978-4887213036。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
外部リンク
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