ランカスター軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:06 UTC 版)
マーガレット王妃とエドワード王子は依然としてランカスター派の勢力圏にあった北部ウェールズへと逃れた。その後、彼らは海路スコットランドに渡り、援助を仰いだ。スコットランド王ジェームズ2世の王妃メアリー・オブ・グエルダースは軍隊の貸与の条件としてベリックの割譲とメアリーの王女とエドワード王子との婚約を提示した。マーガレット王妃はこの条件を呑んだが、彼女には兵士に給与を支払う財産がなく、南イングランドでの略奪を認めた。 マーガレット王妃の軍はヨークシャーを制圧し、彼女の元へランカスター派が集結した。1460年暮れに、ヨーク公リチャードはソールズベリー伯とともに北部のランカスター軍を討つべくロンドンを出立した。12月21日にヨーク公はウェイクフィールド近郊のサンダル城(英語版)に入るが、マーガレット王妃の軍勢はヨーク公の4倍に膨れ上がっており、彼は援軍を待って城に留まるが、ランカスター軍はこれを包囲して食糧補給を遮断した。12月30日にヨーク公は城を出撃してランカスター軍に対して野戦を挑んだ。ウェイクフィールドの戦いはランカスター軍の勝利に終わり、ヨーク公と17歳の次男のラトランド伯エドムンドが戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられ斬首された。マーガレット王妃はヨーク公の首に紙の王冠を被せた上で、彼らの首をヨークの城門にさらさせた。 ウェイクフィールドの戦いの結果、戦死したヨーク公リチャードの長男で18歳のマーチ伯エドワードが、ヨーク公位および合意令に基づく王位請求を継承することになった。彼はウェールズ境界地方の親ヨーク派の軍勢を糾合し、1461年2月2日、ウェールズに侵攻してきたオウエン・テューダー、ペンブルック伯ジャスパー・テューダー父子とウィルトシャー伯ジェームズ・バトラーの率いるランカスター軍をヘレフォードシャー近くのモーティマーズ・クロスで迎え撃った。この戦いの前、彼は払暁に見えた3つの太陽(幻日現象として知られる)を故ヨーク公リチャードの生き残った3人の息子(自身、ジョージ、リチャード)の具現であるとし、勝利の前触れであると告げて兵たちを奮起させた。このことにちなみ、エドワードは後に太陽の光彩を自らのヘラルディック・バッジ(英語版)(記章)に取り入れさせている。会戦はヨーク軍の勝利に終わり、ヨーク公エドワードはオウエン・テューダーを処刑した。 一方、敵の首領ヨーク公リチャードを討ち取ったマーガレット王妃のランカスター軍は、南イングランドで略奪行為を行いつつ、国王奪回を目指して南下を続けていた。ウォリック伯はこれをヨーク派への支持を強めるためのプロパガンダに利用し、コヴェントリーの町はヨーク派に鞍替えしている。ウォリック伯の軍勢は交通上の要衝たるセント・オールバンズの北側に陣地を築いたが、敵軍に数で圧倒されており、マーガレット王妃軍は西に迂回して背後から彼の軍勢に襲いかかった。2月17日の第二次セント・オールバンズの戦いはランカスター軍の圧勝に終わった。ヨーク軍はヘンリー6世を置き去りにして潰走し、国王は町の一軒家の中で発見された。 戦闘後、すぐにヘンリー6世は30人のランカスター軍兵士にナイト爵を授けた。マーガレット王妃は6歳になるエドワード王子にヨーク軍の騎士(ヘンリー6世の警護役で会戦の間中、彼に付き添っていた)の処刑方法を決めさせている。 ランカスター軍の南イングランドでの略奪行為によりロンドン市民は恐慌状態に陥り、ランカスター派の威信は地に落ちていた。マーガレット王妃はロンドンの明け渡し交渉を行うが、市民は城門を閉じて国王と王妃の入城を拒んだ。
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