ランカスター家と英仏関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 08:04 UTC 版)
「イングランド・フランス二重王国」の記事における「ランカスター家と英仏関係」の解説
当初、ヘンリー4世は自領であるランカスター公領に隠遁することを主張し、リチャード2世に対して「貴方の王位を剥奪する望みも権利もない」と書き送った。にもかかわらず、ヘンリー4世は自らの王位を着実にし、リチャード2世は廃位された。国内の争いはヘンリー4世下の統治でのウェールズにおけるオワイン・グリンドゥール(オウェイン・グレンダワー)及び北部のパーシー一族(ヘンリー4世の古い支持者であった)の反乱で頂点を迎えた。しかし、ヘンリー4世は政治的立場を固めていった。内戦はフランスでも同じく、アルマニャック派とブルゴーニュ派の争いという形で勃発していた。シャルル6世の弟であるオルレアン公ルイはブルゴーニュ公ジャン無怖公の指示で暗殺された。このことは当初は風聞に過ぎなかったものが、ブルゴーニュ公国にはスキャンダラスな出来事であり、後にシャルル7世勝利王を巻き込むことになった。内戦を制するためにはヘンリー4世は重要な同盟相手と見做されていた。そのためアルマニャック派は見返りとしてアキテーヌのイングランドへの返還まで申し出て、ヘンリー4世に軍事支援を求めた。(もっとも実際にアルマニャック派が勝利した時にはアキテーヌの件は忘れられたが。)ヘンリー4世は1412年にアルマニャック派を支援するための遠征軍を派遣した。 両派が互いに迫害する形で内戦は続き、アルマニャック派によってソワソンは略奪され、ブルゴーニュ派によってパリは掌握された。ジャン無怖公は若い王太子シャルルと狂気の王シャルル6世の摂政であると主張した。1413年に簒奪者ヘンリー4世は死んだ。王位を継いだのは息子のヘンリー5世である。
※この「ランカスター家と英仏関係」の解説は、「イングランド・フランス二重王国」の解説の一部です。
「ランカスター家と英仏関係」を含む「イングランド・フランス二重王国」の記事については、「イングランド・フランス二重王国」の概要を参照ください。
- ランカスター家と英仏関係のページへのリンク