民族移送政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:39 UTC 版)
「ソビエト連邦における強制移送」の記事における「民族移送政策」の解説
ボリシェビキはロシア革命では民族自決と地方自治を提唱し、1917年11月15日の「ロシア諸民族の権利に関する法令」を公布した。しかし、これはのちに反故にされた。 革命前にはスターリンも民族自決と地方自治を提唱していた。しかし、やがてスターリンは「ソビエト民族」と「外国」民族を峻別し、ソ連国境の民族を敵視していった。ソビエトのドイツ人はナチス支持者で、ソビエトの朝鮮人は日本帝国の支持者で、ソビエトのポーランド人はピウスツキ率いるポーランドの手先とみなされ、スターリンの戦争恐怖症とスパイ恐怖症は、『人民の敵』をでっちあげ、これを抹殺することに熱中していった。 1930年代にいわゆる「人民の敵」と呼ばれる人々はクラークのような社会階級的なものから民族的なものへと変わっていった。スターリン政権下では問題を起こす可能性のある民族の排除が行われていった。1937年以後、スターリンは「大ロシア民族」が他の民族より優位にあると主張した。 スターリン政権下ではポーランド人 (1939–41年、1944–45年)、コラ・ノルウェー人(英語版) (1940–42年)、ルーマニア人 (1941年、1944–53年)、エストニア人、ラトビア人、リトアニア人 (1941年、1945–49年)、ヴォルガ・ドイツ人(1941–45年)、イングリア・フィン人 (1929–31年、1935–39年)、カレリアのフィン人 (1940–41年、1944年), クリミア・タタール人, クリミアのギリシャ人(英語版) (1944年)、コーカサスのギリシャ人(1949–50年), カルムイク人, バルカル人, クリミアのイタリア人(英語版)、カラチャイ人, メスヘティア・トルコ人, カラパパク人(英語版)、朝鮮人 (1930-37)、チェチェン人、イングーシ人 (1944年)が強制移送の対象となった。
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