宮家の継承・創設・断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 05:55 UTC 版)
江戸時代までは、特に定められた4つの宮家(世襲親王家)のみが継承され、嗣子が不在の場合はほかの宮家あるいは内廷皇族(天皇の最近親)の男子が継承していた。 1889年(明治22年)に施行された皇室典範により、永世皇族制が確立された。よって世襲親王家の制度は廃されて宮家の定数がなくなり、明治、大正、昭和、平成の各時代に新しい宮家が創設されている。 基本的に、各宮家の第1男子が宮号を継承し、第2男子以下(天皇・皇太子の第2男子以下を含む)は新たに宮家を創設するか、あるいは臣籍降下する。 皇室典範では新旧ともに養子を認めていないため、宮家に嗣子が不在(男子が生まれない、あるいは早世等した場合)の場合は、他宮家の皇族への宮号継承は行えず、宮家は断絶する。嗣子がいない場合は、たとえ旧世襲親王家であっても、断絶は回避されない。また、嗣子に「不治の病」がある場合、廃嫡が行われたが(例:伏見宮家の邦芳王)、宮号継承後に発病した場合は弟が健在でも、宮家存続の措置は取られなかった(例:山階宮家の山階宮武彦王)。 最後の宮号保有者が薨去後した後も、配偶者(未亡人)や未婚の女子等が皇族として留まっている間は、宮家としては存続する。 宮家に所属した最後の人物が薨去した後、1年後の命日に「一周年祭の儀」が執り行われる。最後の人物に対する葬儀としては、これで終了する。 その2日後、最後の人物の御霊に通常の食事を供え、「権舎の儀」を執り行い、皇居内の皇霊殿に霊魂を移す。すなわち、最後の人物は、宮家の御霊舎には祀られない。そして、当該宮家の御霊舎で、御霊舎に残っていた御霊(過去に薨去した皇族の分霊)に対し「神昇の儀」を執り行う。この儀式(神事)を経て、宮家は正式に絶家となる。 祭祀の継承例 上述のように、旧•現皇室典範下では、宮家自体を他家の皇族が継承することはできないが、宮家の祭祀については他家の皇族が継承した例がある。 有栖川宮家は、1908年(明治41年)、嗣子の栽仁王が早世し絶家が確実になったのち、有栖川宮威仁親王は、伊藤博文に「有栖川宮先代ノ系統ヲ思ヘバ、先例ニ倣ヒ、皇子孫ノ入ラセラレンコトヲ希望スル他意ナシ」と認め、皇子孫による継承を強く希望した。1913年(大正2年)6月、重篤となった威仁親王に、後継者問題の内諭が伝達された。 同年7月6日、大正天皇の第三皇子光宮宣仁親王に「高松宮」の称号が与えられた。高松宮は有栖川宮の旧称であり、また威仁親王の外孫徳川喜久子と宣仁親王の婚約も内定した。1923年(大正12年)、有栖川宮家は威仁親王妃慰子の薨去をもって断絶すると、高松宮はその葬儀で喪主を務め、高松宮家が有栖川宮家の祭祀を継承し、また、同家にまつわる資料を刊行した。 祭祀の継承により、宣仁親王を実質的に有栖川宮家の後継に疑したことは、伊藤による「超法規的措置」として受け止められた。 この他、皇族男子が臣籍降下して断絶した宮家の祭祀を継承した例に、華頂博信(侯爵、伏見宮博恭王の第3男子)や東伏見慈洽(伯爵、久邇宮邦彦王の第3男子)がある。
※この「宮家の継承・創設・断絶」の解説は、「宮家」の解説の一部です。
「宮家の継承・創設・断絶」を含む「宮家」の記事については、「宮家」の概要を参照ください。
- 宮家の継承・創設・断絶のページへのリンク