メロヴィング朝時代のフランク軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)
「フランク王国」の記事における「メロヴィング朝時代のフランク軍」の解説
フランク族がローマ領ガリアで勢力を拡張した5世紀後半には、ローマの正規軍(ローマ軍団)はすでにガリアには存在せず、したがってフランク軍とローマ軍団の戦闘は発生しなかった。当時のガリアでは実戦能力、治安維持能力を喪失したローマ軍に代わり、ガロ・ローマ系のセナトール貴族が私兵を集め、武装従士団を組織して割拠していた。また、各地の皇帝領、国家領に雑多なゲルマン部族から集められた屯田兵(ラエティ laeti)が配置されていた。彼らは重要な街道や軍事用倉庫の守備、国境線の要塞の防衛の見返りとしてローマ領内に居住を認められた人々であった。このようなラエティたちは、ローマ帝国が実効支配能力を喪失していくなかで、新たに権力を手中にしたフランク王国や西ゴート王国のようなゲルマン系王朝、あるいはシアグリウスのようなローマ人の現地支配者たちに服属し、その軍事力の一端を担うようになった。 ガロ・ローマ系の有力者の多くはフランク族が侵入するより前にガリア南部に移動していたが、北部に残った者たちは短期間の抵抗のあと、クローヴィス1世に臣従し従来の地位と財産の安堵を受けたと想定されている。このガリア北部のローマ系有力者や将兵は南部ガリアの征服の際にはフランク軍の一部として都城の攻撃に投入された。各地のラエティたちもまた、クローヴィス1世の勢力拡大に伴って彼に服属していき、フランク軍に組み込まれた。クローヴィス1世の息子たちも、その勢力拡大に伴い父と同じように各地のセナトール貴族やラエティを傘下に収めていった。 こうして形成されていったメロヴィング期のフランク軍は、おもに以下の3つのファクターで構成されたと考えられている。 第一に王の側近として「従士(trustis)」の中から選抜した武装集団「プエリ(pueri)」「武者(armati)」が組織された。彼らは純然たるフランク王の手勢であり、もっとも信頼のおける精鋭であった。 第二にフランク系、およびガロ・ローマ系有力者の従士団があった。彼らは財産や所領を保証してもらう見返りとして忠誠と軍事奉仕を誓った人々であり、その支持は王国の安定上きわめて重要であった。 第三にもともとはローマの国境守備兵力として居住を認められたゲルマン系諸部族やその他の異民族からなるラエティの兵力があった。彼らはローマ時代のキウィタスや城塞(カストラ)、皇帝領に駐屯しており、メロヴィング朝は新たな征服地にもローマ時代のラエティと同じような軍事植民を継続した。それらの地域は「ケンテナ (centena)」と称された。 フランク王国にはローマ帝国時代の正式な徴兵制度は継承されなかった。また、ローマ、ギリシア時代以来の重装歩兵を中核とする戦術も引き継がれなかった。
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