メロヴィング期の農村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)
「フランク王国」の記事における「メロヴィング期の農村」の解説
フランク王国ではパンとワインを中心にするローマ時代の食習慣が継承された。その原料となる小麦とブドウの生産は、ローマ時代のガリアでは、平野部に散在するウィラを中心に奴隷労働によって行われた(ラティフンディウム)。ここでは耕地を二分して地力回復のために1年ごとに休耕を繰り返す二圃制とよばれる輪作が一般的に行われていた。ほかにブドウ畑と放牧地が畑とは別の場所にあった。一方、フランク人をはじめとするゲルマン人たちも農耕の伝統を持っていたが、その技術は未発達であり、狩猟採集、そして牧畜が未熟な農業を補っていた。ゲルマン人の食生活において、牧畜はローマ社会におけるよりはるかに重要であり、ブタ、ウシ、チーズ、バターなどの畜産品は、ゲルマン人の必要カロリーの3分の2近くをまかなっていたとする説もある。フランク王国時代、この2つの生産様式がまじりあい、次第に中世ヨーロッパの農業スタイルを形成していくことになる。 すでに3世紀からガリアの人口は減少傾向にあったが、5世紀に始まった小氷期による気候の寒冷化や治安の悪化、政治情勢の混乱、さらには疫病によってメロヴィング時代初期には人口減少が加速し、6世紀後半には人口は底辺に達した。7世紀には人口は回復し始め、特にガリア北部でゆっくりとだが人口は増加した。 この時期のメロヴィング期の農村の状況については、無論地域的な多様性があったが、考古学的調査によって一般的な仮説を用意できるほどに理解されるようになっている。当時の一般農民の家財道具は一般に非常に貧弱であり、鉄製農具はほとんど見つかっていない。住居そのものも数本の柱で造られた3メートル×4メートルほどの狭い小屋であり、これが30軒ほど点在するようなものが、一般的な集落の形態であった。このような集落の在り方は、古代に比べ農村に対する貴族の影響力が弱かったことを表していると見られる。 ローマ時代には都市の需要を満たすために大規模に実施されていたラティフンディウム制は衰退し、より狭域で完結する農村経済が取って代わった。需要の減少は耕作地の縮小をもたらした。ヨーロッパでもっとも森林が広がったのが500年ごろであることが、花粉と樹幹の分析によってわかっている。 ローマ時代から続くウィラのあるものは放棄され、あるものは6世紀後半まで定住が維持されたが、その場合でも居住面積の縮小、設備機能の変化が見られる。明らかにウィラが結びついていた経済システムの変容がその衰退を招いていたと考えられる。古代の石造のウィラは、木造のそれに代えられたが、王や有力者の権威を表す記号として、都市に居住することと同じくウィラでの居住は有効であった。このようなウィラは30メートル以上の長さを持つ、大広間を備えた主人の家と、それに従う人々の小さな家々、家畜小屋、穀物庫、貯蔵施設などからなった。
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