メロヴィング朝末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)
メロヴィング朝末期の8世紀前半は、こうした修道院における文学活動とは裏腹に、古代以来の学校が姿を消し貴族層も次第に識字能力を喪失していった。初期中世フランス史の研究者ミシェル・ソは「ここで言っておかなければならないのは、文化的レベルが最も低下したのが、とくに八世紀前半だということである」と述べる。古代から継承した文化の中心地であった南部ガリアは8世紀前半にイスラームの襲撃を受け、さらに反撃に出た宮宰カール・マルテルのフランク軍によって再征服される中で甚大な被害を受けた。文化の中心となるべき都市は姿を消し、フランク王国の支配を安定させるために送り込まれていた軍隊を率いていたのは「肩書は貴族だが、証書の下部欄にも、署名の代わりに十字の印を書くことしかできない、無教養な男たち」(ミシェル・ソ)であった。教会の司教職も単なる収入源として戦士たちに与えられ、司牧の役割を果たすことはできなくなった。 このため、メロヴィング朝末期のガリアでは文盲は一般的となり、俗人貴族層も聖職者たちもまったく無学な状態となった。それゆえに、この時代はガリアにおいて文化史的に重大な転換期となっている。このような中で芸術・文学的伝統を維持し続けたのが上記のような多数の聖人伝を残し続けた修道院であり、カロリング朝時代の「文化のルネサンス」へとつながる文化的潮流はもっぱら修道士によって担われることになった。
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