アブスブルゴ朝の断絶とフェリペ5世の選出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 14:22 UTC 版)
「スペイン・ブルボン朝」の記事における「アブスブルゴ朝の断絶とフェリペ5世の選出」の解説
アブスブルゴ(ハプスブルク)家のスペイン王カルロス2世は度重なる近親婚が祟って病弱であり、子供が出来る状態ではなかった。ヨーロッパ諸国はカルロス2世の後継者問題に注目した。衰えたとは言え、スペインは新大陸に広大な植民地(ヌエバ・エスパーニャ)を有し、ナポリ・シチリアの王位を持つなど、その力はいまだ侮り難いものだったからである。カルロス2世は当初はバイエルン・ヴィッテルスバッハ家の公子ヨーゼフ・フェルディナントを選定したが、不幸にも夭逝した。 この状態を見たフランス王ルイ14世は、自分の孫であるアンジュー公フィリップを推した。ルイ14世の妃マリー・テレーズはアブスブルゴ家出身であり、自身も母方からアブスブルゴ家の血を引いていたからである。カルロス2世はこの案を受け入れ、周辺諸国もフィリップがフランス王位請求権を放棄するという条件で即位を承認した。ヨーロッパ諸国は、陸軍大国であったフランスがスペインの海外植民地を手に入れることによって、さらに強力になるのを恐れたのである。そして1700年にカルロス2世が子を残さぬまま死去してアブスブルゴ朝は断絶し、フィリップがフェリペ5世としてスペイン王に即位、ブルボン家によるスペイン統治、即ちスペイン・ブルボン朝が始まる。
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