ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 06:01 UTC 版)
「レジティミスム」の記事における「ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)」の解説
復古ブルボン朝が1814年に始まると、非常に厳しい参政権制限を背景に、ユルトラ王党派が1815年から1816年(「またと見出しがたい議会」 (la Chambre introuvable) と呼ばれた)、さらに1824年から1827年の間、代議院の多数派を占めた。ユルトラたちは「国王以上に国王支持派」 (plus royalistes que le roi) と言われ、ルイ18世(在位1814年 - 1824年)とシャルル10世(在位1824年 - 1830年)の治世に政権与党の座を占めた。ユルトラはルイ18世による立憲君主体制および君主権の制限に反対し、アンシャン・レジームの再構築とフランス革命による歴史の断裂を消し去ることを望んだ。復古王政期に彼らが敵視したのは、自由主義、共和主義そして民主主義の思想だった。ルイ18世は民衆に受け入れられやすいよう、穏健な形でアンシャン・レジームに「回帰」することを望んだが、ユルトラたちは完全な旧体制回帰の夢をあきらめていなかった。ユルトラが王政復古期に政治的に重要な役割を果たせたのは、一部には彼らに非常に有利になる選挙法が定められていたためだった。ユルトラたちは世襲議員として貴族院に席を占めており、また当時の選挙法はおよそ10万人の成人男性にのみ選挙権を与えていたのである。 ルイ18世の治世初期の大臣たち、タレーラン、リシュリュー公、デュカス公らはユルトラに支配された「またと見出しがたい議会」によって退けられた。ついにはルイ18世は、この混乱を招くばかりの議会を解散したが、彼らに代わって議席を占めた自由主義者たちも、ユルトラより御しやすいとは到底言い難かった。1820年に国王の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)の次男でユルトラ反動主義者だったベリー公が暗殺され、リシュリュー公が一時的に政権を担当した後で、ヴィレール伯爵を首班とするユルトラ政権が再び成立した。 1824年に穏健派すぎると見られていたルイ18世が崩御すると、ユルトラの反転攻勢が始まった。1825年1月、ヴィレール内閣は(聖餅が中に入っていようがいまいが)聖器を盗んだ者を死刑とすることを定めた涜聖取締令を通過させた。この「時代錯誤な法律」(フランスの歴史家・政治家ジャン=ノエル・ジャネネの言)は結局一度も適用されないまま、ルイ・フィリップ(在位1830年 - 1848年)の治世の最初の月に廃止された。ユルトラたちはまた急進主義者を処罰するための法廷を設置するよう求め、報道の自由を制限する法案を通過させた。
※この「ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)」の解説は、「レジティミスム」の解説の一部です。
「ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)」を含む「レジティミスム」の記事については、「レジティミスム」の概要を参照ください。
ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 06:16 UTC 版)
「オルレアニスム」の記事における「ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)」の解説
ブルボン王家による統治が1814年に復活すると、自由主義者たちはオルレアニスト陣営に入り、新体制の熱烈な支持者であるレジティミスト、そしてボナパルティストと対立した。彼らから見れば、ボナパルティスムも「民主主義を掲げる独裁主義」に過ぎず、一人の専制君主による支配に他ならなかったのである。当時、革命時代のフランス人が政治的自由よりもずっと大事だと考えていた、法の下での平等と社会生活上の平等は確保されたとされ、人々は次に獲得すべきは政治的自由だと信じていた。オルレアニストたちの考えでは、オルレアン公が理想的な政府の下で自分たちに政治的自由を保障してくれると思われた。 オルレアニスト陣営に加わった自由主義者たちの指導層には、文筆業や実業の世界で著名な人物たちが多かった。フランソワ・ギゾー、アドルフ・ティエール、ド・ブロイ公アシール・シャルル・レオン・ヴィクトルとその息子ジャック・ヴィクトル・アルベール、銀行家ジャック・ラフィットなどである。 1830年の7月革命でブルボン家の嫡系が王位を失うと、オルレアニストたちはそこにつけ込み、まんまとオルレアン公ルイ・フィリップ3世を国王に推戴した。新王は伝統的な「フランスとナヴァルの王」(roi de France et de Navarre)ではなく「フランス人の王」(roi des Français)という称号を採用し、重要な政治的転換をアピールした。この称号の採用は、王が「神意」によって選ばれた存在ではなく、国民との契約によって選ばれた首長に過ぎないことを意味していたのである。
※この「ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)」の解説は、「オルレアニスム」の解説の一部です。
「ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)」を含む「オルレアニスム」の記事については、「オルレアニスム」の概要を参照ください。
- ブルボン復古王政期のページへのリンク